味わい深い国〜人も言葉も食べ物も

《はじめに》
 気が付いてみれば4年も韓国に行っていなかった。時間がなかったわけでもないのに、私は何に追われて行けなかったんだろう。ふと周りを見ると今や韓流ブームの波が吹き荒れていた。今回の旅の目的は主に3つ。まず今夢中になっているKーPOP歌手シン・シンフンのCDをゲットすること。それから10年前の韓国留学時代に出会った友人ウ・スジンに会うこと。出会ってからずっと学生だった彼女が、漢方医となり夢を実現させている姿を是非見たかった。そして春川(チュンチョン)、冬ソナの舞台となった美しい南怡島(ナミソム)を歩いてみたい。一人旅の計画を立てていたのだが、思いがけず同行者が現れての2人旅となった。
 いつもなら、ソウルをぶらぶらする事と、数人の友人に会って帰るという気ままな旅だったので、取り立てて計画する事もなかったのだけど、今回は初めて春川にも脚をのばす。元々外国人が行くような観光地ではないから、下調べが大変。ガイドブックにもあまり載っていなかったから、インターネットが頼り。そんなわけで、準備にもいつもよりちょっと時間をかけた旅が始まった。

《初めて仁川空港からソウル入り》
 出発前日私が寝たのは夜1時過ぎ、翌朝は9時台の飛行機だから4時半起きで留守番の夫の為のお弁当を作り、掃除を済ませての出発となった。遊ぶには旅行前日と、戻った日の翌日の動きまで考えて行動しないと、うまく回らない。エネルギーがいる。
 あまり寝ていなかったにもかかわらず、久々の海外への旅は心躍る。関空で出発時間を見ると、9時25分に変更と出ている。9時半出発だったのが、5分早くなっているのだ。遅れるのはよく聞くけど、5分早めたのはなぜ?間に合わない人ってでないのかしら?そしてその時間通りに動き出した飛行機、ふと窓の外を見ると、まだ地上が見えてるではないの。時計は10時。ほぼ30分も地上を滑っていることになる。こんなんで大丈夫?と思ったとたん、やっとエンジン全開で飛び立った。前方のスクリーンには韓国の地図と日本の地図。そこに飛行機のルートが映し出される。が、ふと見ると地図の真ん中あたりに「トクト(独島)」とハングル表記。日韓で問題になっている独島(竹島)がちゃんと表記してあるのだ。ハングルだから気が付いている日本人はほとんどいないのだろう。漢字表記でないことにホッとしたり(韓国人が日本人から嫌なことを言われそうで)、それでもちゃんとこんなところにも主張して表記していることに、密かに手を叩きたい気持ちになった。韓国人にとっては日本人が考えている以上に、独島問題は大事で誰でも知っている事なのだとあらためて感じる。
 今回の旅の同行者吉田育穂さんと喋っている間に早くも仁川(インチョン)空港へ。新空港が開港してから初めて降り立った。金浦(キンポ)空港を使っていた頃は、空港に直結した地下鉄があったから移動が簡単だった。今度は初めてエアポートバスに乗る。時刻表はどこだろうと見回したら、行き先を書いた看板の裏に細長い2センチ幅程度のシールが貼ってあった。「わざと分かりにくくしているみたいね」と二人とも笑ってしまう。市庁行きのバスで小1時間揺られながら見た窓の外は田植え風景。市庁前広場は、ワールドカップで一面真っ赤に埋め尽くされた場所。見ると独島問題についての写真展示と解説がしてあるテントがあった。中を覗いてゆっくり見学したかったのだけど、残念だが私一人で来ているわけではないし時間的にも無理だった。
 市庁に着いてから旅館まではすぐのはずなのに、地下街への入口が工事中で、何だかとても遠回りをしないと対岸にたどり着けない。地図はおおまかだし、このあたりなのに・・・とあれこれ迷いながら、ベンチに座っていたアジョシ(おじさん)に道を尋ねる。「旅館ならその右の角を入ったところに小さいのがあるよ」と教えてくれた。右を見たけどそれらしきものがない。通り過ぎようとしたその時「アジュンマ(おばさん)!」と叫ぶ声が。??もしかして、アジュンマってわ・た・しのこと?戸惑いながらゆっくりと振り返ると、さっきのアジョシが手を右に差し出している。あっ、この小さい通りを行けってことね。入っていくとありました大祐(デウ)旅館が。道がちょっとくねっていて、旅館は道に入り込まないと見えなかったのだ。それにしてもこんな場所にある旅館に外国人が何人も泊まっていくのだ。みんなどうやって見つけるのだろう。そんなことを思いながら2階へ。日本語も話せる旅館の人は24時間受付に張り付いているようだった。いつもは友人宅に泊まっているのだが、今回は夜の帰宅時間がはっきりしなかったし、結構びっしり予定を立てていたので、私も珍しく宿を取ることにしたのだ。ホテルだと寝るだけにしては料金が高いし、街の中心の明洞(ミョンドン)だと尚更。あれこれ調べてインターネットで部屋の様子も確認し、ここへ予約したのだが、内心育穂氏がどう思うかちょっと不安だった。「トイレとシャワーが付いていれば」という条件しかださなかったけど・・・と思っていたら「結構清潔ですね」とまずは合格のお言葉。部屋も鍵がかかるし、街中なのに静かだし、毎日掃除はしてくれたし思った以上に快適に過ごせた。育穂氏からは「次はオンドルの使える季節に・・・」との嬉しいメッセージまで。
 ホッとしたところでさっきのアジョシの言葉がよみがえってきた。私、「アジュンマ」って呼ばれたの初めて・・・。(コーンと軽いショック)44歳にもなるんだから、誰が考えてもオバサン年齢なんだけど、私は不思議にも日本でも「オバサン」と呼ばれたことがないのだ。一つには子どもがいないこと。そのため子ども関連で呼ばれる機会がない。弟のところの甥や姪からは弟が気を遣ってか、最初から「おねえちゃん」と呼ばれている。そしてこれが一番大きい理由の一つなのだろうけど、在日韓国人の夫の甥、姪からは「セッタオモニ」(2番目のお母さんの意。夫が次男なんで)、や「サンチュン」(親戚のおばさんの意)としか呼ばれたことがないのだ。10年前韓国に住んでいた時は、「アガシ」(お嬢さん)だった。年を取ったのだから当たり前なんだけど、そして韓国語の「アジュンマ」は日本語でいう「中年のオバサン」というイメージより、敬意をも含んだ年相応の年齢の重みを持った呼び方だと思うのだけど、ウーン・・・呼ばれ慣れるには時間がかかりそう。
 さて久々の明洞の街。土曜日とあってかすごい人。うねりの中を歩いている感じ。食べ物やさんがもっとあるはずなのだけど、道が入り組んでいて発見できず。やっとトッポッキ(細長く切ったお餅と野菜のコチュジャン炒め)を買う。実はこれ、天ぷらなどを混ぜて買っている人もいたんだけど、私は買い方、組み合わせ方がもうひとつ分からず、うまく尋ねることも出来ず(韓国語を使うのも久しぶりのせいかとっさに出てこない)、結局シンプルなトッポッキしか買えなかった。昔のトッポッキはもっと細かった気がするんだけど、これは太め。そしてなんと量が多い。二人で休みながら(辛さと闘いながら)やっと食べる。コンビニにも入る。日本と違って狭い。入口も段差がある。「快便」という名のドリンクを見つける。日本ならこんなストレートな名前は飲み物には付けないだろう。別の棚には、紙のサイズならA3くらいの大きさのクッキーの箱が置いてある。何でもみんなで囲んで食べる習慣のある国。この位のサイズが「普通」なのだろうか。
 育穂氏が「歩くの速いですね」とポソッとつぶやいた。あっ、そうなのか、やっぱり私速足だったのか?!以前にも別の友人に「速い!」と何度か袖を引っ張られたことがあったけれど、それは私が速いのではなくその友人が特別遅いのだと思っていた。後で夫にこのことを言うと「僕も速いと思ってた」。それは車椅子を押すと(夫は車椅子使用者)自然と勢いがついて、速くなるのだと信じていた。日頃からやや意識してサッサと歩くように心がけている方ではあるが、それでも「普通」の速さだと思っていたのだ。
 車椅子といえば、今回ソウルで初めて車椅子使用者を目にした。シニアカーに乗っている老人も見かけた。地下鉄乗り場にも車椅子に乗ったおじさんがいた。私が住んでいた10年前は、2年近く一度も車椅子を見かけなかった。いや正確に言うと一度見かけたのだが、それは旅行中の日本人だった。ソウルもやっといくつかの地下鉄の階段に昇降式の椅子ができたけれど、それに乗って昇っても次につながる階段にはもう何も準備されていない中途半端なものだ。街はまだ段差だらけだし、信号も渡り終わらないうちに点滅を始めてしまうせっかちなものだけど、徐々にゆっくりだけど変わってきているのかもしれない。ともかく街に障害者が遊びに出かけている様子が見られて少し嬉しかった。
 疲れた足を癒そうと、お茶を飲みに私の大好きな通り、仁寺洞(インサドン)に行く。書や陶器、古美術品等伝統のものが沢山並べてある。見ているだけでも面白い。休日とあって歩行者天国になっていた。今回はいつも行く伝統茶屋でなく、ガイドブックで見つけた初めての茶屋へ。身長185センチ以上あると思われるカッコイイお兄さんがメニューを持ってきてくれた。私はチベット菊花茶を注文。ハーブの味でした。育穂氏は私もはまっているユジャ茶(柚子茶)に歓声をあげている。私が冬を乗り切るためのドリンクがまさにこのユジャ茶。ビタミンCたっぷりで、蜂蜜の甘さが程良くて、何より皮などの実がスライスしてどさっと入っているのだ。絶品だったのがパッピンズ(かき氷)。ミニトマトは韓国では果物感覚のため、かき氷にものっている。(ユジンがミニョンさんの別荘で朝口にしたのもミニトマトでしたね)小豆やナタデココのようなものも入っている。シリアルコーンを口にする時、なんだろうこれは、はったい粉のような香ばしい味が口にふと広がる瞬間があるのだ。さっきから二人ともこの微妙な味に気が付いていたんだけど、それが何なのかはっきり確認が出来ないでいた。シリアルの味なのだろうか、何かこのあたりに粉がかかっているのか。この味は初体験でした。
 夕食はカンジャンケジャン。蟹の醤油漬けなのだけど、この醤油、ただの醤油ではない深みがある味。店の主人に聞くと、いろいろなヤンニョム(薬味)を入れて沸かしたタレに3日間蟹を漬けるらしい。醤油をご飯に乗せて食べるだけでも美味しい。でもそのぶん高価。今回の旅で一番の高級料理でした。2人で1万円くらい出すと大満足なくらい食べられるようだった。

《ナミソムと春川へ》
 朝食はお粥。他にも日本人観光客が何組か訪れていた。皆こんな入り組んだ場所をどうやって見つけるのだろうと思いながら、スプーンを動かす。さぁ、今日はいよいよ春川へ。ソウル東バスターミナルまで地下鉄に乗り、そこからは市外バスに乗る。時間があったのでトイレへ。消毒液を探して見回すと、なんか電気スタンドのようなものがヌッと突き出ているのが目に入る。よく見ると下から延びた金属の棒に石鹸が突き刺さっていた。なるほどこれなら盗まれないし石鹸かすが溜まらない。トイレに行く前に売店でティッシュを買う。韓国のティシュは小振りのお弁当箱くらいある。ポケットティッシュではないのだ。目的地の加平(カピョン)へバスが予定より15分も早く到着したため、のんびり構えていた私たちは慌てて飛び降り、ここで育穂氏、ミネラルウォーターを置き忘れる。(忘れ物の前兆・・・)日本なら公共の乗り物は時間調整をするだろうに、支障はないのだろうか。
 ナミソムは9割方アベックだった。どこもひしと抱き合い、自分たちの世界に入り込んでいる。ユジンとチュンサンの愛のなんと純朴なことだろう。広いナミソムをひたすら歩く。並木道は松や銀杏・・・と沢山あって、さんざん歩いて冬ソナの舞台となったメタセコイヤの並木道をやっと見つけた。お昼はお目当てのイェンナル・トシラック(昔のお弁当)を食べる。お隣のカップルがしきりに写真撮影をしているので覗き込んだら、アルマイトのお弁当の一番底にキムチを炒めたものが入っていて、その上にご飯、一番上に半熟の目玉焼きが乗っていた。これを軍手をはめてガシャガシャと振り混ぜて(ビビンバして)食べる。美味しい!単純な食べ物なのに、またまた絶品!韓国の40歳代以上の人たちは、昔学校のストーブの上にこのお弁当を載せて食べたらしい。簡単な材料なのに韓国人は実に食べ方がうまい。
 午前中から降ったりやんだりしていた雨が、本格的になりちょっと寒い。歩き疲れたこともあってか、ナミソムから春川へ向かうタクシーの中で、育穂氏はいつの間にか眠っていた。私は女性運転手さんに、「会社には何人女性がいますか?」などとあれこれ質問を始めた。この仕事をして5年になるという彼女、後5年したら積立金が貯まるし、個人タクシーの開業ができること。タクシーの仕事は男性と同等に働けるし、若い女の子にも勧めていること。今の会社には女性は5人いることなど、体格も大きいが声も特別大きい彼女は、いろいろと話してくれた。
 50分近くかかってようやくチュンサン(ペ・ヨンジュンの役名)の家に着く。大きな駐車場を備えたチュンサンの家の女主人が迎えてくれる。家の中は思ったよりも狭い。日本語を話すガイドさんがいて、さぁ写真を撮りましょうと、ユジン(チェ・ジウの役名)のミトンの手袋となんとミニョン(ペ・ヨンジュン二役)さんカツラを手渡してくれる。何度も洗濯して色が抜け落ちてしまったという白っぽくなったピンクのミトンと、まさかこんなところでかぶるとは思わなかったミニョンカツラをかぶる。笑い転げる私を写そうとした育穂氏が、何かを慌てて探している。えっ、カメラがない?!タクシーに乗る前に育穂氏の手首に下がっていたのを私は確かに見ていた。困った!と思う一方で、目の前の状況はすでに「お笑い」場面。私のカメラがあったんでそれでとりあえず交代で記念撮影。その後もガイドさん、さぁ、ピアノの前に座って!次は勉強部屋ねと、次々に指示してくれる。はい、はいと考えるいとまもなく、写真撮影をすることに。一段落付いて、カメラが無いという現実にやっと向き合う。新品のカメラ。この旅のためにわざわざ購入し、まだ2日しか使っていないカメラ。ソウル市内はあまり珍しく感じていない私は、昨日は全然カメラを使っていない。育穂氏のカメラには旅の始まりからがちゃんと写っているのだ。ガイドさんもボランティア大学生も親身になって心配してくれ、すぐに電話をかけてくれたのだか、日曜日とあってタクシー会社に電話がつながらない。外に出ると、チュンサンの家の前でヨンジュン氏のプロマイドを売っている2軒のお店の人たちまで、商売を忘れてそれは大変だと心配顔。運の悪いことに、私のカメラもフィルム切れとなってしまった。予備のフィルムは宿にある鞄の中だった。チュンサンの家の女主人まで、巻き込んでしまったのだが、彼女はせっかく来たのだから湖も見て行きなさいと、その場所を教えてくれた。そして勧められるまま行きかけた私たちに 、「私がそこまで連れて行ってあげるから、さぁ」と私の手を取り、坂道を登り始めた。「この坂を下りたら、まず右に行き、橋が見えたら、それは渡らずに左に折れるのよ」と何度も繰り返し教えてくれる。チュンサンの家での女性や大学生の対応の温かさに、何度も胸を熱くしたのだが、このご主人の対応にも私たちはもう涙、涙・・・。感謝の言葉を伝えると共に、さらにいくつかの質問をした私たちに答えてくださる彼女の両手は、育穂氏が差し出した手をしっかり包み込んでいた。韓国人は言葉だけでなく、体でも思いを伝える。抱き合い、手を握り、それをさすり、頬を寄せる。年齢に関係なく、それを行う。日本では、そして日本人同士では、握手さえままならない。一度このスキンシップに慣れてしまうと、それがないとちょっともどかしかったり寂しかったりする。名残惜しく手を振りながら、坂道を下っていったところに、派出所があった。その時、ふと浮かんだのが出発前旅行社の人から聞いた一言、「何か無くしたり、事故が起こったら必ず届けて証明書をもらっておくように」いったん通り過ぎたのを引き返して、申請する事にした。どうしてもカメラを見つけて欲しかった。「私たちは日本からの旅行者なんですが・・・」と緊張しながら話し始めた。「彼女は今回初めて韓国に来たんです。せっかくのいい思い出をこの事で辛い思いでに変えたくないのです」と、まず私たちの切実さを分かって欲しいという思いで話した。その時、「アイゴー(嘆きの時に韓国人が発する言葉)、カメラを無くしたのも残念だけど、せっかくの思い出が無くなったんて、アイゴー」と一人の警察官が、本当に同情の面もちを見せながら、つぶやいたのだ。育穂氏は、「何でここでも思い出のことを心配してくれるの?」と、韓国人の反応の仕方にまた感激し驚いている。つい先程も、チュンサンの家のボランティアの大学生が言った言葉と同じなのだ。警察官の一人が、タクシー会社がある場所と思われる加平(カピョン)の警察の電話番号とここ春川(チュンチョン)の警察の電話番号を書いてくれ、「誰が電話に出ても分かるようにして置くから」とメモを渡してくれた。さて帰ろうか・・・としたその時、「車でお送りしましょう」との声。えっ、パトカーで?育穂氏の方を見ると、信じられないという顔で笑いながらのけぞっている。異国でパトカーに乗るなんて、せっかくの、そしてまたとないチャンス。私はこういう時、遠慮無く申し出を受けることにしている。
 まずは先程のチュンサンの家で勧められた、湖へ。道すがらくだんの警察官が相棒に「看板が在るとこだろ」。知ってるんだ、冬ソナを。湖を眺めようとした時、警察官の一人が、車からデジカメを持ち出して写真を撮り始めた。「後で送ってあげるよ」と言いながら、自分の携帯でも写真を撮っている。私は笑ってはいけないと思うのだが、制服を着た警察官が真面目な顔で、カメラを見つめているのがどうもそぐわなくて、何で観光旅行者の私たちと警察官が一緒にカメラに収まろうとしているのか、そのシチュエーションの意外さに、信じられない気持ちもあって、吹き出すようにして笑いながらカメラに収まった。さらに中心街まで送ってもらい、私たちの連絡先を渡して別れた。しかしアホなことに私たちの方は、すっかり彼らの名前を聞き忘れていた。
 何という一日だったのだろう。ジェットコースターのように沈んだかと思えば、急に上り詰めたり、カーブになったり、予測できない周囲の反応の数々に、感激で気持ちが一杯になって、冷静に物事を考えることが出来なくなっていた。関わった人たちの名前すら聞くことを忘れていたのだ。
 夕食はチュンチョン名物ダッカルビ(鶏肉と野菜のコチュジャン炒め)。何度も来た韓国なのに、これは初めて食べる。すごい量にもかかわらず、きれいに平らげた。野菜が多いからお腹にもたれない。辛さは私好み。見回すと、みんな赤いエプロンをしている。服が汚れないようにエプロンを使えるようになっていたんだけど、食べ終わった頃やっと気が付く。
 春川駅から国鉄でソウルまで戻る。全席指定の韓国の列車。チケットを買おうとしたらもう席が無いという。仕方なくデッキに新聞を敷いて座ってすごす。お尻が痛くなる位かなり駅を過ぎたところで、下車するおじさんが「中はもう席が空いてきてるよ」と教えてくれ、やっと座れた。旅館に戻ると11時になっていた。なぜか10分遅れの到着だったのだけど、「遅れて到着しました」という簡単なアナウンスだけで、日本のように「お急ぎのところまことに・・・」とは言わないし、その理由も説明しない。周りの人たちもさして気にしているようでもない。数分の遅れが心理的な引き金となって大事故につながった、日本のJRのことをふと思い出す。

《ユジンの家と中央高校、仁寺洞へ》
 育穂氏にとっては旅の最後の日。朝食をとるために、地下鉄で出かける。ここでもまた道が分からなくなって、何人かに道を尋ねる。説明がちょっと違うんじゃないかと、再び地図目を落としていた時、「さっきは道を間違えて教えました」と、いったん向こうに歩いていってしまった先程の青年が戻ってきた。英語でなにやら説明をしているが、私が韓国語で話すと、韓国語に切り替えて「一緒に来て」と先導して歩き始めた。「この店はコムタン(牛のテール<尾>を長時間煮込んだ白濁のスープ)が美味しいんです」と言って指さす店は、再開発中の込み入った通りにあった。このお店、みごとにメニューはコムタンだけ。韓国にいる間このさっぱりしたお粥や汁物が、食べ過ぎのお腹を優しくいたわってくれる感じがして、とても美味しくいただいた。韓国料理はボリュームのあるものから、こんな口にしやすいあっさりしたものまで本当に幅と奥行きがある。
 目指すは冬ソナの舞台の一つである中央高校。ここも地下鉄を降りると大きな看板が出ていた。学校は授業中なので、指定時間以外は見学できなくなっていた。すると校門横で、ヨンジュン氏のプロマイドを売っている女性が「校門の奥まで行って写真を撮ったら?」と手招きして教えてくれる。守衛さんはテレビに見入っている。ちょっと忍び足気味に校門近くへにじり寄る。遠慮がちにでもしっかり写真を撮りました。
 見ていると、マイクロバスが次々に押し寄せて、冬ソナの「春川第一高校」(ほんとはソウル中央高校)を見あげ、土産物屋をさっと覗いて、5分足らずで帰っていく。
すぐ側にあるユジンの家(ここならユジンは絶対遅刻しない距離なんだけど・・・)を見学したとき、そこの女主人が、「下のお店にいるから、お茶を飲みに来てください」と声をかけてくださる。お茶は例の「ヨン様ボイスカップ」に入れてあり、教会でチュンサンが結婚の申し込みをした時の台詞が流れてきた。これは100回位までしか聴けないものなのに、惜しげもなく聴かせてくれる。写真を撮ろうとしたら、ヨン様テディベアと直筆サインの写真立てを手に持たせてくれた。育穂氏がお土産用にいくつかのグッズを買ったら、小さなポスターを2つ、鞄にそっと入れてくれた。冬ソナ以降、考えられないくらい生活が変わったと言うので「大変じゃないですか?」と尋ねると「でも日本に沢山の友人が出来ました」と笑顔で答えてくれる。「ユジンの家」は2ヶ月くらい前から誰も住んでいないと言う。建物がすでに100年近く経ち、修理が必要になってきているけど、土地が深さがあり建物も古いので費用がかかるから、今どうしようかと思っているとのこと。
 昨日から、冬ソナ関連の家々を見てきたが、彼女たちが、商売気抜きで、喜んでひたすら見学者のために心を注いでいるのが分かる。チュンサンの家ではあまりの観光客の多さに閉鎖を申し出ると、再開の声が殺到し、ならば無料を止めて有料にしたところ「高すぎる」(日本円で500円なのに)と、中へ入らず外から見るだけで帰っていく観光客が増えたとか。チュンサンの家の犬はストレスでおかしくなったと聞いている。(そういえば犬は私たちが訪ねた時、我関せずという感じでそっぽを向いて寝ていた)ユジンの家でも「どうぞどうぞ見ていって」という思いが全面に出て接待してくれるのだ。私にはちょっと出来そうにもない。
 帰りに仁寺洞へ寄り、お土産を買う。お昼を食べようとお店を探すのだが、また見つけられず、ここでも何人もの人に尋ねる。韓国人は道を尋ねたとき、「わからない」と突っぱねることはまず、ない。分からなかったら横にいる人を捕まえて言うのだ「ねぇ、ここに行きたいんだって、知らない?」そうしてまた人の渦が出来る。大きな輪が何度が出来たのだが、分からなかった。しまいに小さなホテルのフロントのお兄さんに尋ねた。「この地図にあるお店は、ここに今ありませんね」と言って、私の書いたメモにある電話番号に電話をかけ、道を教えてくれた。地下鉄で20分くらいのところに引っ越していたのだ。
 昨日もそうだった。地下道をどうくぐったら向こうへ出られるだろう、と考えていたとき「あっちだよ」と通りすがりの男性が教えてくれ、その通り地下に潜ったとき、先程の男性が、前の方を歩きながらもう一度振り返って、手で方向を指してくれている。最後まで面倒を見てくれるのだ。徹底している。親切が半端じゃない。ちょっとでも関わったら横向きでなく、正面から接してくれる。日本人は外国人だけでなくよく知らない人に対しては、なるべく関わろうとしないのではないか。(私もそう)しかし韓国人は、外国人や知らない人に対して興味津々で、何か感じたとたんもう口と手足が動きだしているように思う。人に対して初めから大きく心が開かれている感じがする。4年ぶりの韓国旅行で、来る前に私に不安が一つあった。急激な経済成長で、以前からあった韓国人の優しさが薄れてきているんではないかと。変わっていなかった、いや、こんなにも親切だったのかとあらためて発見があり嬉しかった。
 お昼は麦ご飯の野菜ビビンバ。沢山の野菜と豆腐が入った超ヘルシー料理。すでに昨日からたらふく食べ続けている私たちは、もう前屈みが出来ない。傍らの育穂氏を見ると、脚を投げ出し、後ろに手を付いて休憩中。しかしお腹一杯食べたのに野菜中心だから胃もたれせず、夕方にはちゃんと普通にご飯が食べられた。
 ロッテホテル前から、4時のリムジンバスで空港へ行く育穂氏を見送る。一人での帰国をやや不安がっていたけれど、スムーズに行き、飛行機の中ではこの旅の感想を書いていてあっという間に日本にたどり着いたとのこと。この時点でもう育穂氏にとってこの旅は充分忘れられないものになっていたようだ。

《スジニと遊ぶ》
 私の方は韓国の友人スジニの友達ヒヨン氏が、4時半にロッテホテルまで迎えに来てくれた。聞くとスジニの勤める漢方院の看護婦さんをしていたらしい。途中シン・スンフンとヤン・ヒウンのCDを買う。6時半、診療時間が終わるのを待ってスジニと再会の時を待つ。しばらく廊下で待っているとスジニが飛び出してきた。「オンニ(お姉さん)!少しも変わってないね」初めて見るスジニの白衣姿。しばし彼女の診察室で記念撮影。「ウ・スジン漢方医」と書かれたネームが眩しい。
 夕食は生牡蠣のポッサム。ポッサムとはゴマの葉やチシャなどで包んで食べるものをいう。これはおいしかった。久しぶりにトントンチュ(白い濁り酒で甘みとわずかな酸味がある)も飲む。お酒は苦手なのだが、これだけは別格。量は飲めないけど、この一口がたまらない。蒸し豚との相性は絶品。酒好きでないのがこんな時くやしい。ゆっくり食べているとヒヨン氏が「無理して食べてるんじゃないの?」「大丈夫。オンニはいつもゆっくり沢山食べるの」とスジニ。途中お腹をゆるめながら、堪能しました。
 あんまり沢山食べたんで体が重く、ロッテワールドの人工湖をしばし散歩。それにしてもすごい人の波。次から次へと、競歩のスピードで人が押し寄せてくる。健康のため夜歩いている人たちがこんなにいるなんて。私たちも人並みに押されるようにして、歩みを進めていると、スジニがするっと私の腕に手を絡めてきた。あぁ、懐かしいこの感触。初めて韓国人の女性同士が腕を絡めて歩く姿を目にした時は、ちょっと驚いた。そしてやはりかつてスジニが初めて私の腕を取った時は、やや緊張した。でもやがてこれが、韓国ではごく普通の親しい仲での表現だと知ると、私もその輪に入れたことを、嬉しく思った。なんせ韓国では日本では考えられないくらい、老若男女を問わず愛情表現としてボディータッチがごく自然に行われている。日本の若い男性が、在日のハルモニ(おばあさん)のところにインタビューに行った折り、ハルモニが彼の腿のあたりをしきりに撫でてくるので、ちょっと困惑したと告白したことがあった。それは自然な愛情表現で、私のオモニ(夫の母)も、孫に同じ仕草をよくしていると彼に話すと、やっと納得したようだった。私はある時日本で長いつきあいのある友人の手を取ったことがあったのだか、彼女の手があまりにも小さかったことに驚いたと同時に、こんなに長く付き合っているのに、私は彼女の手の大きささえ、体感したことがなかったことに、もっと驚いたことがあった。こんな事、韓国ではまず考えられないのではないか。 
 30分ほど歩いて、お酒が抜けたところで、チムチルパンへ。ここはサウナより穏やかな罨法(あんぽう)を体験できるお風呂。壁にシナモンの枝が束になって下がっている。ヒヨン氏がシッケ(炊いた餅米と麦芽の粉で作られた飲み物。食後によく飲む)を持ってきた。コップに3本のストローを差して3つの頭をぶつけるようにして吸い込む。あ〜、暑い中で飲むシッケはたまらない美味しさ。しばらくゆっくりと汗を出して、顔パックをしながら横になった。その後の記憶はおぼろ。ガンガンとテレビの音が響いていたが、3日間の疲れが出たのか、もう体が動かず。誰かが薄い毛布を掛けてくれた。目覚めると朝6時。ヒヨン氏とスジニは昨夜お風呂に入ってから、少し離れた場所で寝たらしい。周りを見回すと、あちこちで抱き合うようにして、眠っている人たちが目に付く。恋人というより、明らかに年齢的にも夫婦に見えたが、どこでも韓国人は愛情をあらわすことにためらいや妙な遠慮がなくて、いいなと思う。朝風呂に入る。さわやかな朝の空気の中をスジニのアパートまで帰宅。今日はスジニが私のために休暇を取ってくれていた。
 スジニのアパートは8畳ほどのワンルーム。洗濯機と冷蔵庫付き。食べる事を重視するお国柄ゆえか、なぜかキッチンが驚くほど立派。天袋もあるし小さな食器乾燥機まで付いている。元々韓国人は家財道具を多く持たない。オンドルだから暖房器具もいらないし、扇風機が無くとも湿気が少ないから夏はしのげる。布団もオンドル部屋では薄手のマットと肌がけ布団で充分。そのためか日本と違って押入はないのにスッキリと片づいている。スジニも以前の学生時代より荷物は増えているが、それでもベットとTV、洋服掛けと書棚だけ。シャツなんかはどこへ?と、さっきから気になっていたキッチンの引き出しへ目がいく。そこはスジニのタンスと化していた。
 9時頃ヒヨン氏が自宅から山ほどの食糧を持って来て、台所に立ち料理を始めた。アンコウの海鮮鍋、ジョン(薄く切った肉・魚・野菜などを溶き卵にくぐらせて焼いたもの)、プルコギ、ケジャン、キムチ・・・。とても朝食とは思えない豪華版。海鮮鍋とプルコギは絶品。いつも思うのだか、韓国人は実に料理がうまい。私は料理下手な韓国人と、勉強をしない韓国人を、まだ知らない(大学生でもまるで受験生のように熱心に勉強する)。これでもかというほど食べて、最後はヌルンジ(お焦げ)とスンニョン(お焦げ湯)でしめる。こんなものまで工夫して食べ尽くすのが韓国人。スンニョンが香ばしい。コーヒーでさらに一息ついているところへ、おや電話の音。
 「オンニ、見つかったよ、カメラ!」スジニが加平警察署からの電話を受けている。あ〜よかった。これでこの旅をうまく終えることが出来る。昨日何度か加平警察の生活安全係に電話をしたのだが、その時電話を受けてくれた若い警察官が、「タクシー会社の1人の女性ドライバーにだけ連絡が付きません。休暇で携帯もつながらないのですが、たぶんその女性に間違いないでしょう。午後からも何度か電話をかけて見るので、もうちょっとだけ待ってくださいね」と言ってくれていた。とても誠実に仕事をしてくださっている様子が伝わってきて、少し希望を持っていた。後知ったのだが、あの時のタクシーの運転手さんが警察までカメラを持参してくれ、車があるからそこまで持っていってあげようかと言っていたらしい。ここが加平からは遠いソウルと知って、無理だと諦めたようなのだが、それにしても持ってきてくれるなんて余計な仕事なのに、やっぱり親切。結局、スジニのところに警察からいったん郵送してもらい、それをにスジニが私の家に送り届けるということにする。沢山の人の手を煩わせてしまったけれど、みんな面倒がるどころか、喜んでこれらのことをしてくれた。ただただ感謝です。
 スジニの電話を借りて、別の友人の勤め先へ電話をする。「ソウルに来て、私に会わないで帰るなんて!」と怒ってくれるのが嬉しい。。彼女とはソウルで同じ教会に行き、私が韓国へ来るたびに彼女の家に寝泊まりしている仲である。今回は遠出もしたし、夜の帰宅時間が予想できなかったこともあって旅館に泊まることになったため、私の来韓は知らせてなかった。ソウル滞在中夕方にでも会いたかったが、予定を詰め込みすぎてそれもかなわなかったのだ。電話でそれを詫びながら、声だけでも聞きたいと思って電話をした旨伝える。あれもこれもしたいこと、行きたいところ、食べたいもの、会いたい人がある韓国では3泊4日の旅はあまりにも短すぎる。
 遅い朝食を終え、3人で買い物のためロッテデパートの地下へ出かけ、お土産用の海苔を選ぶ。海苔だけでものすごい種類。違いを説明されるのだけど、よくわからず試食で決める。以前とても美味しい海苔をいただいたのだが、それは見つけだせず。スジニが私の夫へのお土産にと、大箱の海苔を買ってくれました。
 朝の食事がまだ消化しきれず、お昼を喫茶店ですごすことにする。スジニがパンを買っていこうという。えっ、持ち込みありなの?聞くと韓国ではその喫茶店で売っているものとぶつからない限り、持ち込みは堂々と可らしい。私たちもパンやクッキーを持っていったら、ちゃんとそれを入れるお皿まで出てきた。ヒヨン氏がファンタのようなジュースを頼んだら、なんと缶ジュースが出てきた。彼女はそれをコップに注いで飲んでいる。しばらくおしゃべりをした後、トイレに行って戻ってきたところ、スジニが「オンニ、次は何を飲む?」と聞いてきた。お代わりならいらないけど・・・と思っていると、無料だからという。え〜っ、どういう事?スジニはさっきコーヒーを頼んでいた。コーヒーはなぜかお代わりがあるらしい。そんな時韓国人はコーヒーサーバーに入ったコーヒーを、一人で飲んでしまうことはせず、必ず一緒の友人たちと分け合うという。それならば、とお店では他の友人たちにもお代わりできるように無料でサービスするという。それもさっきとは別の飲み物でもいいのだ。へーっ、今まで知らなかった。第一貧乏学生だった私は、喫茶店にもろくに行ったことはないし、今日のように長居をすることもなかったから、知らないままだったのかもしれない。精算の時、「ゆっくり楽しめましたか?」とお店の人。持ち込みをし、無料お代わりをし、長居の客なんて、あんまり儲からなかったなじゃないのと思うのだけど、お店の人は最期までサービス精神いっぱい。
 ヒヨン氏がデパートに預けた私の荷物を取りに行っている間、スジニとまたおしゃべり。それにしても気持ちがいいのは、ヒヨン氏がこの間、いつもサッと動いて私の荷物を持ち、雑用を一手に引き受けてくれる事。彼女は20代、スジニは30代、そして私は40代で、それぞれおよそ10歳ずつ違う。儒教制度のためとはいえ、自然に身に付いた年上をうやまうこの行動は、日本の若者にはそう見られない。年を取ることがこの国では尊ばれるのだと思う。これが「アジュンマ(おばさん)」になって味わう快感かもしれない。
 スジニが飛行機に乗る前にお腹が空くといけないからと「私のこの旅の最後の贈り物」と言って、プルタヌン・オジンオ・バーガー(火の出るイカバーガー)を買ってくれる。4時になり、ロッテデパート前から市外バス停留所に向かう。「オンニ、時間が来たのね」「スジニにこんないい友達(ヒヨン氏)がいると知って良かった。スジニには韓国に来たら、いつも会いたいよ」抱き合って、また抱き合って、涙で胸がいっぱい。まるで恋人同士のように別れを惜しむ。韓国にこんなに愛しい友人がいるなんて幸せ。

《旅を終えて》
 カメラをなくしたことで、思いもかけない現地の人との交流が出来、おもしろい経験もし、美味しいものを堪能し、懐かしい友に再会し、そして最後にはカメラも無事見つかって・・・忘れられない、2度と経験できないような濃厚な旅となった。
 帰国後、カメラを受け取った私たちは、礼状書きに追われた。韓国語が多少出来ると言っても、何せ覚えたのは10年前、しかも会話は出来ても作文練習はほとんどしていない私にとって、韓国語での手紙書きは神経を使った。文章は何とか出来るのだけど、硬いぎこちない表現しかできない。しかたなく30年前に朝鮮学校を卒業した夫の妹へチェックを頼んだ。妹が知っているのは「朝鮮語」(韓国語とは微妙に違う表現がある)であり、しかも30年前の言葉とあって、辞書を引きながら格闘してくれたようだ。春川警察へ1通、加平警察とタクシーの運転手さん、そしてチュンサンの家の女主人の方には育穂氏と私がそれぞれ1通ずつ手紙を書いた。そして育穂氏はカメラを取り次いで送ってくれたスジニへ、韓国語混じりの英語の手紙を送った。すべて書き終えたらもう7月になっていた。時間はかかったけれど、どうしてもお礼の言葉は伝えなければと思った。「もし失礼な表現があったら、私たちが韓国語の能力が足りないからだと理解してください」と言いわけしながら、それでも精一杯の気持ちをつづった。その後加平警察からスジニの元に、「お菓子と手紙を受け取りました。当然の仕事をしたまでですのに。日本のあなたの友人によろしく伝えて下さい」と電話があったのだ。顔も知らない加平の警察官チョン・ジンヨル氏、私の拙い韓国語を電話だけで聴き取るのは、大変だったかもしれない。本当にありがとうございました。

《終わりに》
 2年足らずとはいえかつて韓国に住み、今は在日韓国人と結婚している私は、韓国人の立場でものを考えたり感じてしまうことが多い。私は日本では様々な面で生きにくさを感じる方だから、余計そうなのかもしれない。そのため韓国人が日本人である私に、親切にしてくれればくれるほど、申し訳ない気持ちになる時がある。政治の面で問題が山積みなのも、政治家の言動が問題になる時も、私は政治と民間交流は別とは言いきれない胸の痛みを感じる。そんな政治家を育て選択しているのは、間違いなく私たち一般の日本人なのだから、私には大いに責任があるのだ。多くの韓国人が、あなたと日本国、日本の政治は同じではないのだから・・・と大きな心で接してくれるのに対し、私は甘えないようにしたいと思っている。韓国人の温かさを知るだけでなく、辛さや怒りももっと知り理解を深めていきたい。私はいつも自分は加害国日本人であるという消すことの出来ない事実を、私の前から外さないでいたい。そうする事が今の私に出来る最低限の韓国人に対する責任表示であるように思う。
 育穂氏が一足先に、旅行記を書いて海鴎トラベルのホームページに掲載され、私も友人、知人に宣伝して読んでもらった。文章で残し伝えることが、自分にとって感想や思いを振り返り残す意味があるだけでなく、多くの人と分かちあえ、今回は韓国への理解の一助にまでなった。育穂氏の文章に刺激されるようにして、私もやっと今これを書き終えることが出来た。私の心を刺激してくれ、お腹も心も存分に満たしてくれる韓国にまた行きたい、今度はあまり間を空けすぎないうちに。

2005年9月     島村教子・記

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