【韓国旅行記】                      2005.5.21〜23


春川(チュンチョン)にてパトカーに乗る!?

其の1 何故、今、韓国なのか

其の2 ハングル文字を読む

其の3 韓国料理はヘルシー

其の4 韓国語を使ってみる

其の5 道を尋ねる

其の6 春川(チュンチョン)の人々


其の1 何故、今、韓国なのか

 この時期、私のような日本人中年女性が「韓国に行きます。」というと、「冬ソナツアーですか?」と必ず聞かれる。確かに半分はそうなんだけど、「私は20年前から韓国には行かなくちゃと思っていたのよ」と、意味のない言い訳をしようとしている私なのでした。

 私と韓国との出会いは27年前、大学1年の冬にひとりの在日朝鮮人女性に出会ったことに始まります。彼女は「在日朝鮮人」というよりは、「強烈に自己主張する障害者」として私の前に現れたんだけど、「介護」で彼女の家に出入りする中で、いろんな「韓国文化」に触れました。冷蔵庫にはたいていキムチが入っていたし、ニンニクとゴマ油で味付けする献立をよく作らされたし、電話に出るときには「ヨボセヨ(もしもし)」と言っていた。彼女のオモニ(お母さん)は生野で韓国伝統芸能のお師匠さんをしていたから、実家にいくと、民族楽器がたくさん置いてあって、まさに「韓国文化」を感じた。(このとき見たスッカラ(スプーン)が、なぜか私は羨ましくて、その後「冬ソナ」で「ミニョンさん」が使うスッカラに再会し、今回の旅行のお土産はスッカラと、心に決めたりしていました。・・余談)
 彼女の友達にも当然在日の人が多くて、その中に、焼肉屋に行くと、これでもかというほど幸せそうな顔をして、汗を流しながら、本当に美味しそうにご飯を食べる人がいた。当時彼女は指紋押捺拒否の運動をしていたので、彼女による日韓問題の学習会があったりもしました。

 大学卒業後はじめて勤めた中学校が在日の生徒が多いところで、朝鮮語学級の担当教員の一員になったり、人権学習の資料を準備したりする中で、少しずつ日韓の歴史を勉強したりしていました。(そのとき、ハングルの読み方の基礎を勉強しました。)
 その頃は「日本人の加害性」に気持ちが集中していたので、韓国に行くには、それなりの覚悟と立場の自覚なしには行けないと思い込んでいた。「エステ、焼肉、ショッピング」という韓国旅行には、当然のことながら関心がなかったわけです。

 その後、子どもの保育園で、職場で、ご近所で、在日の人たちと友達になって、あまり一面的な考え方をしてもしようがないと思うようになっていたところに、この「冬ソナ」ブームです。日本人の中年女性たちが、実に軽々と韓国に出かけていく姿を見て、そしてペ・ヨンジュン氏が日韓の間に橋を架けてくれたのを見て、これは「とりあえず」行ってみてもいいのかな、という気になっていました。

 そして今回の旅行の企画から通訳まですべてをこなしてくれた島村教子(きょうこ)氏の存在です。彼女とは同じ職場(生野区の訪問看護ステーション。彼女は理学療法士、私は事務)で働いていたときにはほとんど話もしなかったのに、退職後、上記の「初めて出会った在日朝鮮人」の女性が、教子さんの愛してやまない夫君(おっとぎみ)趙益秀(チョ・イクス)氏の知り合いであったことが発覚してから、メールを交換するようになっていました。
 ある日彼女から「まだこのビョーキに罹患してはいないかと思い・・・」という題名のメールがきた。「いったいなんのビョーキ?」と思ってメールを開ければ、そこには「冬ソナ」にとっぷりハマってしまった教子さんの姿がありました。へ? あの教子さんが?
 私の中で彼女は、夫君への愛を臆面もなく語りまくる以外は、クリスチャンであり、ペシャワール会(アフガニスタンで無医村の医療に関わる中村哲氏の会)の活動に関わる非常に「真面目な」女性というイメージしかなかったのです。その彼女が夕食を作るのもそっちのけで、「冬ソナ」を視聴し、ネットでペ・ヨンジュン情報を探っている。ドラマそのものよりも、そっちの方に興味をもって、私も「冬ソナ」を見始めたのですが、その後のハマリ方は、知る人ぞ知る物語・・・。
彼女は愛する夫君のため、ソウルの大学に留学して韓国語をマスターした人なので(※註 この部分「趙との出会いにより韓国に興味を持った島村のために、当時恋人というより特別な深い友人であった趙が、学校や下宿、韓国で頼る友人まで手配し、時には日本から1時間にもおよぶ国際電話をかけながら、支えてくれた」との補足説明あり。by 益秀氏)、韓国に行くなら彼女と一緒に行きたいなあと思っていたところ、「じゃ、一緒に行きましょうか」ということになり、あとはとんとん拍子で話が進んでいったのでした。
 旅程は2泊3日。1日目はソウルの街の散策。2日目は「冬ソナ」のロケ地になった春川(チュンチョン)市への小旅行。3日目はソウル中央高校(ここもロケ地)の見学とお土産の買い物、と決めて(というか決めてもらって)、いよいよ韓国への手作りの旅が始まるのでした。


其の2 ハングル文字を読む

  5月21日(土)、関空から約1時間半で仁川(インチョン)国際空港に到着。バスでソウル市内に向かう。さっそく、車内の吊り広告や、座席のポケットにあった黄色い紙に書いてあるハングル文字をかたっぱしから読んでみる私。「チュ・ムン・ピョ・・・。なんだこりゃ?あっ、『注文表』ですね。」なるほど「韓国土産の注文表」かぁ。とりあえず読めて、意味がわかると、となりで教子さんがパチパチと拍手してくれる。その後も車窓から見える看板のハングルを、とりあえず声を出して読み続ける私。すると教子さん、「なんだか、最近字が読めるようになった子どもみたいですね。」
 なるほどなぁ。子どもって、ひらがなが読めるようになると、目に付くひらがなをとりあえず声に出して読んでみるよなあ。そうやって、子どもは字を覚えていくのね。そう、私もこうやってハングル文字を勉強していくのよ。それにしても教子ssi(韓国語で「さん」)はいい先生だ。「字を覚えたての子ども」に辛抱強くつきあってくれて、分らなければヒントを出し、分れば「偉い、偉い」と誉めてくれる。やっぱり子どもは誉めて育てないとね。
 それにしても、本当に街はハングルだらけだった。もう少し漢字も使われているのかと思ったが、漢字を見かけたのは地下鉄の駅名くらい。それも中国人観光客向けかな?あとたまに「○○建設」と書いた会社の看板もあったけれど、アルファベットも予想より少なく、本当にハングルだらけだった。フォントはもちろんいろいろあって、私は若い人が使うんだろうなと思われる「マッチ棒風」のハングル文字が可愛くて、気に入りました。そうすると、日本の「丸文字」も外国人にはウケるのかもしれないなぁ・・・。
 でもとりあえず「読める」というのは、少しは役に立ったような気がします。


其の3 韓国料理はヘルシー

 <1日目のおやつ 南大門市場(ナンデムンシジャン)の屋台でトッポッキとホットッ>
   ソウル市内のモーテルに到着してすぐ、市内観光に出かけました。まずは南大門市場(ナンデムンシジャン)。ここは、道にまで商品があふれかえり、屋台が並び、客引きの声が飛び交う、非常に活気ある市場でした。ガイドブックをむき出しに持っていたので、日本人観光客であることがバレバレだったのか、カバン屋さんには必ず声をかけられた。「カバンあるよ。カンペキなニセモノ!!」。「完璧なニセモノ」って、そんな誘い文句があっていいのか!?
 屋台のおやつは是非とも経験してみたかったので、まずは「トッポッキ」をいただく。直径1cm、長さ5cmくらいの円柱状のおもちで、コチュジャン(甘辛い真赤なお味噌)にからめて食べる。そう、チュンサンが「僕の好きな食べ物」と言った、あのトッポッキです。カップ1杯で300円。安い!これは結構辛かった。
                                                         

 次に教子さんが留学中によくおやつで食べたと言う「ホットッ」を試食。こちらはたっぷりの油で焼いたおもちで、中にあんことシナモンが入っていて甘〜くておいしい。2枚で100円だったかな。
 ほかにも玉子で巻いたお寿司とか、串にさした天ぷらとか、いっぱい食べたかったけど、夕食に備えて自粛しました。何も買わずに、明洞(ミョンドン)地区に移動。
 こちらは若者の街で、ブティックや、各国料理店、エステサロン、スポーツジムなどが立ち並んでいました。ここで私は気がついた。教子ssiは、足が速い。どんどん歩く、歩く。私はほとんど小走りで、ついていくのがやっとでした。ペタンコ靴をはいてきたにもかかわらず、早くも足の痛みを感じ始めた軟弱な私は、「どこかでお茶でも飲みませんか」と遠慮がちに提案。
 「それでは韓国の伝統茶でも。」ということで、地下鉄で仁寺洞(インサドン)地区に移動することになりました。



<3時のお茶  仁寺洞(インサドン)のカフェで柚子茶(ユジャチャ)とかき氷(パッピンス)>
 仁寺洞(インサドン)地区は、ソウルの中で一番お気に入りの場所でした。石畳の通りの両側に、伝統的な絵画や陶器を売る店、おみやげ物屋、ちょっと洒落たカフェが立ち並び、屋台が出ていたり、路上でパフォーマンスをする人がいたり。「伝統」と「今」が調和した、全長1km程度のオシャレな通りでした。なぜか欧米系の男女6人組が路上でアカペラを披露していて、観光客の喝采を浴びていた。 
 「休」という名前のカフェで、「アイス柚子茶(ユジャチャ)」を注文。お茶とは言いながら、柚子をマーマレード状にしたものを氷水で割った飲み物で、甘酸っぱくて、非常に美味でした。これは必ず日本で流行る!いや流行らせてみせる!と、なぜか意気込む私。

休憩も終わり、ウインドーショッピングをしながら歩いていると、突然キュートな女子大生に英語で話しかけられた。 「大学で韓国料理が世界に受け入れられるかどうかの調査をしています。どんな韓国料理を知っていますか?どれが好きですか?それはなぜですか?」

私は「チヂミ好き」なので、「チヂミ」と答えましたが通じなくて、「パジョン」というとなんとか通じました。 「チヂミっていうのは済州島(チェジュド)の言い方かしら・・・」と教子さん。
 とにかく韓国料理は野菜の和え物(ナムルのようなもの)が多くてとってもヘルシーなので、ヘルシー志向の今、「絶対世界に受け入れられると思う!」と話しておきました。
<1日目の夜  明洞(ミョンドン)でカンジャンケジャン(渡り蟹のしょうゆ漬け)>
仁寺洞(インサドン)から、今度は歩いて、本日の夕食が待っている明洞(ミョンドン)地区に戻る。 途中ロッテホテルとロッテ百貨店に立ち寄って、ペ・ヨンジュン氏の数々のパネルを拝んでおきました。このあたりは屋台は言うに及ばす、各種ファーストフード店が立ち並び、ファーストフード好きの私にはたまらない街並みでした。「私は絶対ソウルで生きていける!」と確信。
夕食のカンジャンケジャンは、お姉さんがハサミで切って、食べやすくしてくれました。新鮮な蟹のとろとろの食感と、漬けてある醤油ダレが絶品。 そのあと、かにみそとご飯を醤油ダレで混ぜて食べるんだけど、これがまたまた秀逸。ちょっと量が少なかったのが、すっごく残念だった・・・。

<2日目の朝  モーテル近くの食堂で松の実のお粥>
ソウルの中心街から少しはずれたところにある大祐(デウ)旅館が、私達がお世話になったモーテルでした。ツイン2泊で10万ウォン。つまり一人当たり2泊で5000円というお安さなのですが、清潔なベッドとテレビと冷蔵庫、トイレとシャワー。う〜ん。これで十分ではないか。オンドル(韓国伝統の床暖房)部屋もあるということで、今度は冬に来て、オンドルを体験してみたいと思いました。 
翌朝は近くの食堂でお粥をいただく。キムチ、ナムルがいっぱいついて600円。非常にヘルシーでした。店を出て、さて地下鉄乗り場はどこだと探していると、外に出ていた店のご主人が話しかけてくれる。教子さんは韓国語で尋ねているのに、ときどき英語を交えて説明してくれるご主人。おそらく現地の韓国人と日本人観光客の共通言語は英語なんだろうと思いました。その後も時々英語を交えて説明してくれる人がいましたから。 地下鉄でバスターミナルまで移動し、いざ、今日の目的地である南怡島(ナミソム)&春川(チュンチョン)に向けて出発!! 

<2日目の昼  南怡島(ナミソム)でキムチパップのお弁当>ドラマで見た南怡島(ナミソム)は、静かなメタセコイヤの並木道が印象的でしたが、なんのことはない、ここは休日に家族連れやカップル、グループが大挙して押し寄せる、一大リゾートアイランドでありました。サッカーゴールやバレーボールのネットもあちこちにあって、スポーツに熱狂する中年グループがやたらと目に付く。なるほど、チュンサンとユジンがデートの途中でいきなりバレーボールを始めた理由もこれで納得できました。あのシーン、ちょっと無理があったんじゃない?とひそかに思っていたので。
日本人観光客にはまったくと言っていいほど、遭遇せず。ヨンジュンファンの日本人は、いまごろサムチョク(9月公開予定の映画の撮影地)に集まっているのだろうと思われます。新しく建立されたチュンサンとユジンの銅像の前では、韓国人の観光客が入れ替わり立ち代わり写真を撮っていました。いま韓国では「冬ソナ」のパロデイー版がテレビ放送されているらしい。彼らの人気はまだまだ健在なのでしょう。
                              
お昼ごはんは、ペ・ヨンジュン氏も食べたといわれる「キムチパップ」のお弁当(正式名称:「イェンナル・トシラック」。「イェンナル」は「昔」の意で、「トシラック」は「お弁当」の意)。400円でお味噌汁つき。アルマイトのお弁当箱の中にご飯とキムチと卵を入れてガスであぶるだけという、いたってシンプルかつ素朴なお弁当でして、これをお客自らが軍手をはめて、がさがさと振って、混ぜて食べるわけです。別に「冬ソナ」ファンというわけでもなさそうな、現地の韓国客も並んで手に入れていたので、彼等にとってもこれはノスタルジーなのかしらと思いました。

 <2日目の夜  春川(チュンチョン)のダッカルビ横丁でダッカルビ(鶏肉と野菜の甘辛い鉄板焼き)>
春川(チュンチョン)での信じ難い出来事を体験したあとだったので(其の6参照)、教子さんも私もその摩訶不思議な感動を反芻しながら、口数も少なく、黙々と食べていた。辛いなぁ、量が多いなぁと思いながら、結局全部食べた。

 <3日目の朝  コムタン(牛肉のスープご飯)>
ソウルの超近代的ビルの裏側にある、超下町の食堂で雑炊の朝食。葱がたっぷり。牛骨のうまみが溶け出した、ぜいたくな雑炊でした。
朝食後、ソウル中央高校へ出かけました。授業中だったので、見学できるのは校門付近だけ。そこで、今回の韓国旅行では珍しく、日本人の中年男女団体観光客に遭遇。別に「冬ソナ」ファンという感じではなく、「ソウルに来たついでに、ここにも寄ってみた」という雰囲気でした。ガイドさんがなにやら説明しておられたので一緒についていくと、あら、すぐそこにユジンの家が。春川(チュンチョン)にあるはずなのに・・・。
この急な階段。たしかにここはドラマで見たユジンの家の玄関です。遅刻したチュンサンが学校に入る前にタバコを一服していたあの壁も、実はユジンの家の壁だったんです。なんという使い回し。

ユジンの家のご主人が、中央高校の校門前でおみやげ物やさんをしていたので、立ち寄ってみる。
「家を撮影に使わせてほしいと聞いて、びっくりしませんでしたか?」
「いいえ、私の家はもう6回くらい、撮影に使われているんです。」
それは驚いた。でも、「冬ソナ」のフィーバー以来、生活はすっかり変わったとおっしゃっていました。
 中央高校は「冬ソナ」のユン・ソクホ監督の母校で、今、彼のお兄さんがここで教師をしているとか、そんなお宝情報もいただきつつ、おいしいお茶もいただきつつ、ご主人と一緒に記念撮影をして、お店をあとにしました。
 
再び仁寺洞(インサドン)を通ってお土産を物色。たまたま入ったお店で、欲しかったスッカラが見つかったので、10本購入しました。他にも巾着袋を10枚買ったので、値引きをしてくださったおじさんは、大阪に知り合いのお店があるとか、一度日本に行ってみたいというような話を教子さんとしつつ、珈琲をごちそうしてくれました。朝から2回も無料(ただ)のお茶をご馳走になったラッキーな私達。

 仁寺洞(インサドン)の出口にタプコル公園という「3・1独立運動」の発祥の地があったので立ち寄ってみる。1919年3月1日にここで宣言された独立運動が、市民や女性を巻き込みながら全国各地に広がっていった様子と、それを弾圧する官憲の姿が、12枚の青銅のレリーフに刻まれていました。一枚一枚レリーフにはハングル文字の解説板がついていて、教子さんが全部読んでくれた。

 <3日目の昼  ポリパプ(麦ご飯のピビンパ)>
今回の韓国滞在中、食べ物ではこれが一番メインだったかな。いろんな野菜の和え物やらおかずやらがテーブルの上にところせましとずらっと並んで、それを麦ご飯とピビンして(混ぜて)食べるという、ヘルシーの極致の献立。こんなの毎日食べてたら、健康になるわなあと実感しました。


<3日目のおやつ  空港のグロリアジーンズ(アメリカ行きを決意したミニョンさんがコーヒーを飲んでいたところ)でマフィンと珈琲>
 行くまでは、辛いものばっかりだったらちょっとキツイなぁとか思っていましたが、「ちょっと辛いな」と思ったのは「トッポギ」と「ダッカルビ」くらいで、あとは野菜たっぷりのヘルシー献立でした。
あ〜〜、美味しかった!


其の4 韓国語を使ってみる 
 
ハングル文字は、なんとかかろうじて読めるけれども、会話はまったくだめな私。韓国行きを前に少しはしゃべれるようになろうと、「冬ソナのシナリオ対訳集」とDVDを使って勉強する予定だったのですが、予定はあくまで「予定」ということで・・・。教子さんという存在もあったので、会話はほとんどゼロの状態で韓国に乗り込んだのでした。

初日の地下鉄切符売り場で。
教子さんが切符を買ってくれている間ひとりで待っていると、中学生風の女の子二人に道を尋ねられる。突然のことでぽけっとしていると、彼女たち、(このオバサン、イルボンサラム(日本人)よ・・・)とか言っている。「そうなの。私、韓国語はわからないのよ。」と言いたかったけど、私の口は「チュンハクセン(中学生)?」と聞いていた。彼女達、「イエー(はい)」。・・・・・あと続かず・・・・。
 韓国滞在中、もう一回、韓国人に道を尋ねられた。私もまんざらでもないか。(何が?)

2日目 南怡島(ナミソム)のカフェテラスで
 教子ssiがキムチパップを手に入れるため列に並んでくれていたので、私は席取りをすることになった。ベンチに荷物を置いて座ると、向かいに座っていた母娘連れの母の方がなんかイロイロ言っている。(韓国語、分らないんです。)と言いたかったのに、私の口は「チョヌン イルボンサラムイムニダ(私は日本人です)。」と言っていた。(日本人だからって何よ。)と言いたげなお母さん。そりゃそうだろう。あれ、ひょっとしたら、ここに座っちゃいけないのかなと思って、「ここだめなんですか?」と言いたかったけど、韓国語がでてくるはずもなく。ひたすら座席を指差して「ケンチャナヨ(大丈夫)?」とか言ってみる。母が「・・・・・アボジガ・・・・・」と言ったので、(あー、お父さんが来るのね)とやっと悟った私は、「ミアネヨ(ごめんなんさい)」と言ったか言わなかったか忘れたが、やっと立ち上がったのでした。は〜〜、冷や汗かいた。

最終日 空港のイミグレーションで。
  出国審査官のおじさんがなんか言ってる。「チュブ?チュブ」(チュブって何?チュブって・・・・・・あぁ、「主婦」か。)「そうそう、チュブイエヨ(主婦です)。チュブ。」出国カードの「職業欄」を空白にしていたので、おじさんは「主婦でしょ?主婦。」と聞いていたのだった。数少ない海外旅行の経験で、イミグレーション・オフィサーは無表情な人が多いと思っていたけれど、彼は非常にくつろいだ感じで、ニコニコと仕事をし、やたらと旅行客に声をかけていた。教子さんに「『カムサハムニダ(感謝します)』より『コマスムニダ(ありがとう)』の方がよく使います。自然ですから。」と教わっていたにもかかわらず、またも私は「カムサハムニダ〜」と言って、おじさんと別れたのであった。

ま、3日間で喋った韓国語は「アンニョンハシムニカ」、「カムサハムニダ」、「コマスムニダ」、「チェソンハムニダ(申し訳ありません)」ばっかりだったなぁ。もうちょっと喋ってみるはずだったんだけど。・・・・・無念・・・・。

あっ、もう一回。仁寺洞(インサドン)のお土産を買ったお店で、おじさんと教子さんが親しげに話しをしていたとき、わたしの口が突然「イルボンサラム、マニエヨ?(日本人、多いですか?)」と聞いていた。なんか、言いたかったんだろう。私の口・・・。


其の5 道を尋ねる

この3日間で、教子さんはいったい何人の人に道を尋ねただろう? 20人? 30人? しかし、そのだれもが、実に親切に、丁寧に、道を教えてくれたのには驚いた。尋ねなくても、しばらく地図に見入っているだけで、向こうから寄ってきてくれる人たちもたくさんいました。自分達が分らなければ、道行く別の人を呼び止めて聞いてくれたり。
極めつけは、ある若いカップル。
一日目の夜、夕食を終えた私たちはモーテルに戻ろうとしていた。ソウル市内は、広い道を渡る横断歩道が少なくて、たいていは地下道を使わなくてはならない。そして一度地下にもぐってしまうと、方向感覚を失って、へんなところに出てしまうのでした。私達が道端の地図とガイドブックを照らし合わせて、「ああでもない、こうでもない」とやっていると、「May I help you?」ってな感じで(もちろん韓国語)、若いカップルが現れた。
教子さんが「ここのモーテルに帰りたいんです。」と言うと、しばらく悩んでいたが「ご案内します。」と言って、二人は先に立って歩き出した。まあ、なんてご親切な、と思ってついていくと、私達が後ろにいるにもかかわらず、この二人、イチャつく、イチャつく。手をつなぐ。肩をだく。歌う。踊る。この「ていねいさ」と「あけっぴろげさ」のアンバランスが、なんともおもしろかったです。目指す目的地についたので、お礼を言って別れようとしたら、このふたり「他にお困りのことはございませんか?」ときた。まったく、どこまでいい人なんだか。


其の6 春川(チュンチョン)の人々

 この旅行中、最も特筆すべき出来事と言えば、なんと言っても「春川(チュンチョン)」での一件であります。
2日目の午前中、南怡島(ナミソム)観光を終えた私たちは、次なる目的地、春川(チュンチョン)市内の「チュンサンの家」に向かっていた。ドラマでは、二人はバスに乗って「ナミソム」と「チュンチョン」を比較的簡単に往復しているようなのですが、タクシーに乗った私たちは、なかなか「チュンサンの家」にたどり着けないでいました。
 ここでもタクシーの女運転手、道行く人に尋ねる、尋ねる。車の中からおっきな声で「ハクセン(学生)!」「アボジ(おじさん)!」「アジュマ(おばさん)!」と、手当たり次第に声をかけ、「ヨンサマチベ カゴシッポヨ(ヨンサマの家に行きたいのよ)」と聞きまくっていた。尋ねられた人々はとりあえず教えてくれるんだけど、適当なことを言っているのか、なかなか目指す家が見つからない。でも、そうこうするうちに、「冬ソナロケ地」と書いた看板が目に留まり、やっと「チュンサンの家」に到着しました。
 駐車場でタクシーを降りると、なんと駐車場の管理人室にいるのは、あの「チュンサンの家」の女主人ではありませんか。メイキングビデオで何度か姿をみた、あのご主人。日本人観光客への対応が大変で、公開を中止したいと言っていたあのご主人・・・・。
 その日は日曜日。日曜日は公開していないと聞いていたし、外観だけちょっと見て帰ろうと思っていたのに、彼女、「ケンチャナヨ。日曜日でも大丈夫。どうぞ、見て行ってください」と、私達を家のほうへと送り出してくれました。
 あらま〜。ドラマで見たあの部屋が、まさにそこにありました。ボランティアだと言う女性が、流暢な日本語でとりしきる。
 「ここが、ヨンサマの家です。このソファに座って『おかあさん、ぼくアメリカに行きます』と電話をかけましたね。はい、ここに座って写真とりましょう」と、ソファを指差す。とても断れる雰囲気ではなかったので、はいはい、せっかくですから、とデジカメを取り出そうとすると、・・・・・あれ?・・・・ない!?・・・
 あれ? 確かにずっと手首にかけてたのに・・・・。なんで?なんで?と頭が空回りを始める。 ふと振り向くと、あの、あの教子さんが、ミニョンのカツラをかぶって、手にはピンクのミトンをはめ、受話器を握って、こっちをむいて笑っている・・・・・・・・・・・。
 あまりにもアンビリーバブルな光景。信じられない。あの教子さんが・・・・。そして、デジカメがない・・・・・。
しばし、思考停止する私の脳みそ・・・・・。
        
夢うつつのうちに、とりあえず教子さんのカメラで「記念撮影」を済ませると、「カメラはいったいどこでなくしたんでしょう?」という話が始まりました。「タクシーに乗るまで確かに持っていたのを見ましたから、きっとタクシーの中ですよ」と教子ssi。(タクシーの中でしばらく寝てたから、手首からすりぬけちゃたのかなあ。でも、これ以上ここにいると迷惑だから、早くここを立ち去って、ゆっくり考えなくちゃ。)と私。
 件のボランティア女史が、隣の部屋にいた、これまたボランティアの大学生を呼び、ことの次第を話し始めた。(まずい、まずい。早く立ち去らねば・・・・・。)
 すると、その大学生、これまた流暢な日本語で、「どんなタクシーでしたか?どこから乗りましたか?」と矢継ぎ早に質問を始め、こんな一言を。

 「たくさん写真を撮られたでしょうに、その思い出が無くなってしまうと思うと、僕は心が痛いです。」

彼は、「粗忽な日本人観光客がタクシーにカメラを置き忘れた」という事実に接して、「韓国の思い出が消えてしまうことがつらい」と言い、「僕、タクシー会社や警察に連絡して、必ず見つけます。連絡先をここに書いてください」と、ノートを差し出してくれたのです。「カメラ」ではなく「韓国の思い出」を大切にしてくれた彼の暖かい言葉に感動しながら、私は(いえいえ、写真はなくなっても、あなたのその暖かい言葉は決して忘れませんよ)と思っていた。
泊まっているモーテルの電話番号と、念のため私の日本の住所を書いて、チュンサンの家をあとにする。ここで初めて使いましたよ。「チェソンハムニダ(申し訳ありません)。」ユジンやサンヒョクが目上の人に対して使っていた「申し訳ありません。」とにかく「チェソンハムニダ」と「カムサハムニダ」を連呼して、二人のボランティアの方と別れました。
駐車場まで降りてきたところで、「さっき、家のご主人とタクシーの運転手さんが親しそうに喋ってたから、もしかしたらタクシー会社の名前がわかるかも・・」と、教子さんがご主人に事の次第を話してくれました。そしたらご主人、「あら大変」とばかり、私達を連れて家に戻り、さきほどの大学生から事情聴取。そして、「女のタクシードライバーは珍しいからきっと見つかるわよ」と、警察に電話をするため、家の奥に入って行かれました。ホントに申し訳なくて心苦しく思いながら、大学生としばしお話。
彼は中学生の頃、春川市の代表として、姉妹都市である山口県の防府市に来たことがあるそうです。そのとき、日本側の代表だった女の子を好きになったんだけど、日本語を話せなくて何も言えなかったので、それ以来日本語の勉強を始めた、というほのぼの話。大阪にも来たことがあって「アメちゃん食べる?」と聞かれたときには、「ちゃん」は人につけることばだと聞いていたので、「 『アメちゃん』っていう人を食べるの!?」とビックリした、というおもしろ話。
でも今、日本で中国人留学生の犯罪が多発したことで、留学生の滞在条件が厳しくなり、韓国人留学生もそのとばっちりを受けているのが残念と言っていました。「韓国人留学生は地下鉄で人助けをして、亡くなったこともあったのに」と。
「日本に来られたらご馳走しますから、是非連絡してください」と言って彼と別れました。私が頭を下げれば下げるほど、彼はもっと深く頭を下げるので、最後はふたりとも180度体を折り曲げて挨拶しました。
家のご主人にもお礼を言って帰ろうとすると、「きれいな湖があるから、是非見ていきなさい」と勧められる。そこもロケ地だというので、「じゃあ、行ってみます」と答えると、大きな道まで見送ってくれました。この人たち、いったいどこまで親切なんだろうと思いつつ、ひとつ気になっていたことを教子さんに訳してもらった。
「日本からたくさん観光客が押しかけて、ご迷惑じゃなかったですか?」
「初めは日本人はあまり好きではありませんでした。でもこのこと(冬ソナのブーム)があって、日本人がたくさん春川を訪ねてきてくれることが嬉しくなった。疲れて、夕方には倒れこんで寝てしまうこともあるけれど、また次の日には朝起きて、みなさんをお迎えしたいと思うんです。」
無礼な態度をとる日本人もいるだろうし、私生活を犠牲にして、なんでそんな風に思えるんだろうと混乱した頭で、握手をしてもらおうと手をさしだすと、彼女は私の手を胸のところでじっと握ったまま、話し始めた。韓国語は分らなかったけど、韓国人と日本人は仲良くしなくちゃいけないし、必ず仲良くできるというようなことをおっしゃっていたと思います。そして何度も何度も「カメラは見つかるわよ。見つかったら、必ず連絡してあげるから」と繰り返してくれました。ここまでくると、私も教子さんも涙がとまらなくて、何度も振り返りながら、手を振って別れました。

湖へ向かう途中、警察があったので、「とりあえず届けときましょうか」と教子さんが提案してくれ、警察署の中へ。カメラをなくしたくらいで対応してもらえるのかなぁと思っていたら、3人のおまわりさんが一斉にあちこちに電話をかけて、手がかりを探そうとしてくれる。ここでも「思い出がなくなると気の毒だね」と、「思い出」に心を寄せてくれたのには驚きました。「ここは春川(チュンチョン)警察。ナミソムでタクシーに乗ったんだったら、そこは加平(カピョン)警察の管轄だから、両方の電話番号書いとくよ。また電話しておいで。みつかったら、分るようにしとくから。」と実に親切。(警察まで親切なんだな)と思っていたら、教子さん、「湖までパトカーで送ってあげるって言ってる」・・・。????????
春川(チュンチョン)に到着して以来、信じられないようなご親切に次から次へと遭遇し、今度はパトカーで湖へ? こんなことってあるんだろうかと思いつつ、言われるままにパトカーの後ろ座席に乗って湖まで送ってもらいました。私もデジカメをなくし、教子さんもカメラのフィルムが終わってしまっていたので、おまわりさん、自分のデジカメを取り出して、記念撮影してくれる。「送ってあげるから連絡先を書きなさい」だって。
「じゃ、駅まで送ってあげるよ」というので、すかさず「明洞(ミョンドン ※ソウルのミョンドンではなく、春川のミョンドンです)に行くんです」と教子ssi。「じゃ、そっちへ行こう」とまたパトカーへ。私も教子さんもさっきから起こっている出来事を頭で整理しきれず、なんか夢の中って感じです。
教子ssi  「仕事ケンチャナヨ(大丈夫ですか)?」。
おまわりさん  「大丈夫。これも仕事のうちだから」。
ここでまた、ひとつ気になっていたことを教子さんに訳してもらった。
「韓国に来る前、韓国人の7割は日本人が嫌いだと聞いていました。それなのにこんなに親切にしていただいてとても嬉しいです。」
「韓国人も日本人も一緒だよ。たしかに独島(竹島)の問題もあるけど、あれは政治の問題だからね。民間人同士はなかよく交流すればいい。まあ、韓国人は感情的なものは持ってるけど。」
パトカーが明洞(ミョンドン)について、おまわりさんが外からドアを開けてくれました。「まあ、なんて紳士的なおまわりさん!」と、私も教子さんも思っていたら、「これは悪いことをした人が乗る車だからね。ドアは外からしか開かないんだよ。」


終わりに

2泊3日の韓国旅行。冬ソナのロケ地を巡ること、韓国人の日本人に対する感情を肌で感じてみたいというのが、この旅の目的でした。
初日に、ソウルの市庁舎前と仁寺洞(インサドン)で、「独島問題」で活動しているグループをみかけましたが、それ以外は、私達を日本人と知りながら、実にたくさんの人に親切にしてもらいました。これは「たまたま出会った人たちが親切だった」というには、あまりにも確率が高くて、やっぱり、困っている人をみたら黙ってはいられない、他人の問題を自分のことのように心配する心の余裕を持っている人が実に多いのだろうと思わずにはいられませんでした。顔も似てるし、山があって川があって田んぼがあって、風景も「日本と似てるな」というのが、今回の印象。確かに、似てるところも似てないところもあるだろうし、日本人にも韓国人にも親切な人、親切でない人がいるだろうけど、お互いのいいところを認め合って、仲良くすればいい、仲良くできるはずだと、当たり前のことを感じた3日間でした。
【後日談】 タクシーの女運転手さんがカメラに気づいて警察に届けてくれ、私のデジカメはなんと日本に戻ってきたのです!! 関わってくださったすべての人に感謝。

SPECIAL THANKS to 教子ssi

今回の旅行は、教子さんがいなければ、ありえませんでした。旅程、宿泊場所、食事の場所、移動手段などすべて考えて、下調べをしてくれて、私のお土産、国際電話の心配までしてくれて、本当にお世話になりました。そして、教子さんが韓国語ができることで、旅行がずいぶん豊かなものになりました。
 道を聞くときも、食堂でも、お土産物やさんでも、タクシーの運転手さんも、ユジンの家のご主人も、仁寺洞でアンケート調査をしていた女子大学生も、教子さんが韓国ができると知ると、ふっと表情が緩んで、親近感を感じてくれてるなあというのがよく分った。「言葉」がわからなくても「心」で通じるというのは真実だろうけど、「言葉」ができることで、より近づけるというのも事実だと実感しました。
 そして、カメラが見つかったのも、教子さんが警察に何度も電話してくれたからだし、また携帯電話をもたずにウロウロしている私達にいつでも連絡がとれるようにと、ソウル在住のお友達の携帯電話番号を使わせてもらったからです。常に素早い的確な判断をしてくれて、心を砕いてくれた彼女には心から感謝しています。
 47歳と1週間で経験したこの旅は、生涯忘れられない旅となりました。


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