北海道 道東の旅

 

YUMIKO

鹿「あ、鹿、しか、シカ・・・・」と説明していた添乗員が突然叫ぶ声。

 私は、5月26日(土)から28日(月)まで2泊3日で、海鴎トラベルを通じてエースJTB『道東旅情 層雲峡・知床・阿寒3日間』のツアーに両親と参加しました。

 そもそも今回の旅行はまとまった旅行券があったことがきっかけでした。私が働いているBANKに「旅行」を目的とした積立預金があります。その旅行積立は2年前に商品化し、その時、発売を記念して大々的にキャンペーンが実施され、獲得件数の目標達成に向けて職員内の勧誘も行われ、半ば強制的に入らされました。その積立が今春満期になり、まとまった旅行券として返ってきたわけです。それで海鴎の行澤さんに相談にのっていただいて「晩春の北海道」に行くことにしました。私は、北海道は高校の修学旅行以来で、しかも修学旅行の時は道南(函館、札幌方面)で道東方面は初めてでした。しかし両親は知床や網走を除いては2回で「前はあーやった。こうやった。」と時より2人で思い出話に花を咲かせ、私が入り込む余地がありませんでした。

 旅行当日、前日から私の家に泊まっていた両親と集合場所になっていた関西国際空港に行き、手続きを済ませ、ANA133便で一路「新千歳空港」へと向かいました。1週間前から北海道の天気が気になり、連日のようにインターネットで北海道の天気予報を調べましたが、雲マークや傘マークばかりで少々落ち込んでいました。予報どおり、到着後の天気は曇りで、バスの中で小雨が降りましたが、日頃の行いがいいのか(本当かな???)、2日目、3日目と晴天に恵まれました。ホー。そして新千歳空港に到着後、集合してびっくり。予想に反してツアーに参加された人が87人だったのです。もっと少ないと思っていましたのに・・・・。だから2台のバスに分乗し廻りましたが、時折一緒になったものの、私達親子3人を含め47人を乗せたバスは単独でツアーコースを廻りました。

 新千歳空港からラベンダーの町・富良野に行きました。ラベンダーの開花時期にはまだ早過ぎて花は見られませんでしたが、富良野や美瑛の丘から見た遠く山並にはまだ残雪があり、緑の絨毯とコントラストがなんと美しかったこと。そして層雲峡温泉で一泊しましたが、その層雲峡がある上川町は、長野オリンピックで大活躍したジャンプの原田選手の故郷だとバスガイドさんが教えてくれました。夕食はホテルの大広間で食べましたが、隣部屋の違うツアーがマイクを使用してビンゴゲームやカラオケをしていてうるさかったです。ホテルに入ったのが午後7時頃で、疲れているのに、隣でガンガンとやられ、落ち着いて食べることができず、早々と退散しました。温泉に浸かり1日の旅の疲れを癒したあと、現地のアイヌ民族のファミリーによる、観客を巻き込んだ、素朴で、ユーモアたっぷりなアイヌの踊りが1階のロビーで約1時間弱開かれ、観に行きました。

 2日目は朝7時50分ホテルを出発。銀河の滝、流星の滝を見ましたが、知床にオシンコシンの滝もそうでしたが、雪解け水のせいか大量の水が勢いよく上から流れ、自然の醍醐味を見ることができました。次に北キツネ牧場に行きましたが、丁度毛の生え変わりの時期でどのキツネも汚く今ひとつでした。でも、同日の夕方ウトロから知床5湖に行く途中、車窓から野生の北キツネを見ました。しかも子ギツネも。まるで子犬かと思うほど可愛いかった。

北キツネ牧場から網走に行きましたが、『博物館網走監獄』か『オホーツク流氷館』かのいずれかを選択して見学できるようなコースになっていて、私たち親子3人組は旅費を出した私の権限で『博物館網走監獄』を見学しました。博物館では博物館のコンパニオンが説明してくれ、昔の牢獄を見て廻りましたが、昔といっても1983(S58)年まで使用していたそうです。昔、北海道開拓時代、網走刑務所などの刑務所に収容された囚人達が、逃亡を防ぐために2人一組で鉄の鎖に繋がれ、非人道的な過酷な労働を強いられ、道路工事に従事した様子が人形を使って再現したセットがありました。北海道の道路は別名「囚人道路」という名称のつく道が多く、その道路をバスで通りました。広い平原の中を1本まっすぐ道路が走っていましたが、この道路の基礎を作ったのは囚人達です。熊の出現に怯え、鬱蒼と立ちはだかる自然と闘いながら、ただ前進するのみの作業だったろう。死んだ囚人達はその場に埋葬され目印に鎖を墓標のそばに置いたそうです。今はそうした囚人達を祭ったほこらがあり車窓からも見えました。また博物館では牢獄から脱走する様子をわかるように天井の柱に人形がぶら下がっていました。大阪では考えにくいほどの寒さ厳しい北海道の冬、暖房対策を工夫した舎坊でしたが、寒かっただろう。今はどういった構造になっているかわかりませんが、昔に比べると少しは改善されていると思います。博物館から少し離れた場所に現在の刑務所があり、人間は自分の私利私欲のために他人の命やものを奪うのだろう、と思いながら車窓から見ていました。JR網走駅の駅名や役所名は縦書きで書いてありましたが、これは「心をまっすぐにするように」という意図があるそうです。

網走の中心街から少し行くとオホーツク海が見えました。いよいよ知床です。その前に昼食を食べましたがカニ尽くしの料理でした。私は手が悪いのでカニの身を親に取ってもらい食べましたが、とてもおいしかった。さすが本場の味でした。昼食後、少し時間があったので、海岸の砂浜に行き波と戯れていましたが、真冬には巨大な流氷が流れてくるとは信じられない穏やかな海でした。

バスはオホーツク海より少し離れ、東藻琴温泉芝桜公園に行きました。丘一面濃いピンクに覆われていて、「きれい!!」「キレイ!!」の連発でした。でも今年はハエが異常発生したらしく、ハエが多かったこと。そうした状況の中、バスガイドさんがお勧めのメロンソフトクリームをしっかりと食べました。

オホーツクの海岸線に戻り一路知床へ。途中オシンコシンの滝で下車し見学。「知床旅情」の歌を歌った森繁久弥が登ったという山を車窓から見ながら、ウトロ温泉街を通り過ぎて知床五湖のうち一湖に行きました。大自然の中をバスが走って行きながら、添乗員が説明している際中、突然、「あ、鹿、しか、シカ・・・・」と叫ぶこと。一斉にみんなは添乗員が言った方向に振り向く。見るとエゾシカが群れをなしてのんびりと草を食べていました。しかし、そうした情景を何度も見るうちにガイドさんや添乗員さんは騒がなくなりました。知床あたりは熊が出没するらしく、一湖に行く時は、観光バス協会の規則によりバスガイドは安全性の問題で引率せず、添乗員が案内することになっているそうで、私達は添乗員の案内で行きました。もう夕方でやや辺りは暗くなりちょっと不安でしたが、熊に遭遇せず、小さな鈴を鳴らしながら無事見学を終えました。

ウトロ温泉に戻り、部屋や浴場からオホーツク海が望めるホテルに宿泊しました。しかし、1泊目に宿泊したホテルもそうでしたが、浴場には段差が多く、増してやこのホテルは女性の浴場が2階で、しかも階段しか行けないところにありました。上がるのに大変でした。まだ新しいホテルみたいでしたが、バリアフリーにはなっていませんでした。障害者だけではなく、高齢者も宿泊するホテルや旅館は進んでバリアフリーにすべきだと痛感しました。

最終日は、また朝7時50分ホテルを出発。硫黄山に行きましたが、足元が大変歩きにくかったので、硫黄が噴出しているところまで行きませんでした。ガイドさんのお勧めの温泉卵を食べました。そのあとこの旅行でもっとも行きたった摩周湖に行きました。布施明の曲で『霧の摩周湖』(古いかな)という歌がありますが、当日はよく晴れていて、あたり一辺よく眺望することができました。森に包まれた青々とした湖はやはり神秘的で美しい。昔、渡辺淳一著で、摩周湖や阿寒湖、屈斜路湖など、北海道の湖を集めた写真集が単行本でありましたが、やはり摩周湖が心に惹かれました。最後の観光コース、まりもで有名な阿寒湖に行きましたが、ホテルや土産屋が立ち並び、観光化してちょっとがっかりしました。親たちは以前阿寒湖に行ったことがあり、湖の真中に島があってまりもの養殖場がある。そこまでボートで行ったと話してくれましたが、今回のツアーのコースには入っていませんでした。残念。そして女満別空港へ。当初案内パンフレットでは釧路空港からと明記していましたが、今回は女満別空港からでした。そこで3日間お世話になったバスの運転手やバスガイドさんとお別れでした。私達は14時40分発JAS26便で新千歳空港まで飛びましたが、新千歳で約2時間の待ち時間がありました。空港内の土産物店を母と見てまわり、ホテル等で買わずにここで買えばよかったと思いつつ、ウインドーショピングを楽しみました。そして17時10分発JAS668便で伊丹空港へ飛び、そこで父と別れ、母と家路を急ぎました。父は家のことが心配だからと言って京都に帰りました。

 雄大な大自然の中を西から東へとバスで横断しましたが、大阪市内とは比較にならない程の自動車の少なさ。しかも北海道特有なのかもしれませんが、道路の上に矢印が下向けに両端にぶら下がっていました。母が「冬の時期、道路は雪で一面覆われ、道路幅がわからなくなるため、道幅を標すものだ。」と教えてくれました。なるほど、納得。

それにしても、バスガイドさんはあれだけ詳細に観光名所の説明を、世俗の情報を織り交ぜて3日間よく話せるものだと感心しました。記録力と経験の勝負と思いました。北海道の地名等はアイヌ語から来ています。例えば「知床」はアイヌ語「シレトク」Sir-etokで「大地の行き詰まり」だそうです。またバスガイドさんは摩周湖にまつわる民話も話してくれました。私はアイヌ民族について全然知りませんが、民族差別があることだけは知っています。昔、差別問題の集会に参加した際、時々チラシに書いてありました。今回北海道に行き、ほんの少しアイヌ文化に接して思うことは、アイヌの言葉や伝統文化を守っていただき後世にまで伝えてほしいということです。1日目に泊まったホテルで踊りを踊ったアイヌの人達が話しておられましたが、「今は普通の生活をしているが、伝統文化を守っていきたい」と。

最後に、今度、北海道に行くチャンスがあれば小樽や、高校の修学旅行に行った道南の方面にもう一度に行ってみたい。その時は海鴎の行澤さん、どうぞよろしく。       

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