韓国「民主化」のなかの在日韓国人
スパイねつ造事件――四半世紀のときを超えて
(『世界』2012年10月号)


木村 貴 きむら・たかし
 1972年生まれ。九州大学大学院法学府博士後期課程単位取得退学。韓国霊山大学校国際学部専任講師・九州大学法学研究院助教を経て、現在九州大学法学研究院協力研究員。主な専門分野は韓国政治・国際人権法。


 「これまでの苦痛に対して、どのように慰労の言葉を掛けていいのか分かりません。失われた時間を取り戻す方法がないことが大変残念であります。この判決によって、その痛みを少しでも取り除くことができれば、幸いであります」

 2012年3月29日14時55分、ソウル高等裁判所404号室。裁判長が、被告金元重(61)に無罪判決の宣告とともにかけた慰労の言葉である。「在日韓国人スパイねつ造事件」被害者に対する再審無罪判決の宣告は、2010年7月の李宗樹(54)から数えて9人日のことであった。

■南でつくられた「北のスパイ」たち
 100人以上いるといわれる「在日韓国人スパイねつ造事件」被害者であるが、2012年8月現在、無罪確定が6人(李宗樹、尹正憲、柳英数、金東輝、金元重、朴博)、無罪判決宣告後、検察の上告により日本の最高裁判所に該当する大法院係留中が3人(李憲治、金整司、柳成三)、高等裁判所再審公判中が3人(康宗憲、趙一之、具末謨)、再審開始決定が3人(金鍾太、許哲中、高秉澤)、再審請求中が7人(姜宇奎、李東石、姜鐘健、金鉄佑、朴栄植、李哲、崔然淑)となっている。
 この22人の中には商用で韓国訪問中に逮捕された者もいるが、大半がソウル・釜山の大学留学中に逮捕されている。「母国」である国籍国韓国に留学(出張、親戚訪問)した彼らは、「母国」によってその人生の一部を奪われた。
 尹正憲(59)の場合、京都大学卒業後日本の製薬会社に勤務し、韓国高麗大学校医学部に編入した。そして、在学中の1984年8月27日、軍の情報機関である国軍保安司令部(以下、保安司)捜査官によって自宅前で連行された。拘束令状が発布されるまでの43日間不法拘禁され、殴打、水拷問、電気拷問などのあらゆる拷問が加えられた。その結果、彼は、北朝鮮でスパイ教育を受け、韓国留学後入手した国家秘密を北朝鮮に漏らしたとして、懲役7年の刑を宣告きれた。
 しかし、そもそも、尹正憲は、保安司にとって、機関の予算獲得のためにスパイ容疑捜査対象者名簿にリストアップされた存在に過ぎなかった。だが、その後、保安司協力者である在日韓国人の暴力団関係者Yや東京公安のS、大阪公安のI、京都府警のFなどから尹正憲に関する情報が多数送られ、保安司は彼をリストの上位に上げるようになったため、彼は、「北のスパイ」として処罰されるに至ったのである。
 また、金整司(57)の場合は、彼の有罪判決が金大中(元大統領)死刑判決の根拠となっている。金整司は、1977年4月に柳英数(63)・柳成三(58)兄弟とともに不法連行・拘禁され、捜査の過程で、「韓民統」(韓国民主回復統一促進国民会議日本本部、現「韓統連」)や朝鮮総連・北朝鮮との関係がねつ造され、その結果、韓民統が「反国家団体」と規定されるようになった。この判決が根拠となり、1973年の韓民統結成当時議長であった金大中は、1980年軍法会議により死刑判決を宣告されることになった。金整司は、拷問の後遺症で現在でも杖を手放せない状態である。
 彼ら被害者に共通しているのは、逮捕令状のない状態で不法連行・拘禁され、中央情報部(KCIA)や保安司などの情報機関で殴打・水拷問・電気拷問などありとあらゆる拷問を加えられ虚偽の自白を強要された結果、「北のスパイ」とねつ造された点である。国家保安法・反共法違反で有罪となった彼らは、死刑から懲役5年までの判決が下され、長い人で15年、短い人でも2年を韓国の刑務所で過ごすことになった。
 「北のスパイ」として逮捕された彼らは、刑務所の中でも苦労することになる。当時の韓国の刑務所では、一般囚が青、反政府活動家が緑色(もしくは黄色)、国家保安法・反共法違反(スパイ罪)が赤のマークを胸につけていた。そのため、所内で「アカは嫌いだ! スパイは死ね!」と罵倒されることもあった。
 大部分は、釈放後、韓国にとどまることなく即座に日本に戻っている。パスポートも日本での在留資格も喪失している彼らに「便宜」を図ったのは、日本政府であった。被害者の証言によると、釈放後日本大使館関係者が被害者のもとを訪れ、日本に戻ることのできる各種書類を準備し、飛行機の手配まで準備されていたとのことである。関係者らの話では、韓国政府から日本政府に連絡が行っていたのではなかろうかと言われている。つまり、刑務所に送るときも出すときも、日韓両政府の「共同作業」だったのである。
 日本での差別に苦しみ、また、祖国への憧れから韓国に渡った青年たちを待っていたのは、拷問と刑務所暮らしであった。彼らは、身体的に、また精神的に苦痛を受けた。その結果、被害者たちは、聴力などに後遺症が残り、頭痛が治まらない日々を過ごし、ある被害者は、車いす生活を余儀なくされている。また、被害者の中には、韓国での経験がトラウマとなり、事件後一度も韓国に行っていない者もいる。彼は言う。「国家保安法がまだあるというのに、どうしてそんな所に行くことができようか。俺を逮捕しないという保証がない限り、韓国には行けないし、行きたくもない」と。
 では、なぜ、彼らはこのような被害に遭わなければならなかったのであろうか。

■暴力による支配
 当時の韓国は、正当性の脆弱な軍事政権の支配下にあった。1961年の軍事クーデターによって権力を掌握した朴正煕と1979年から1980年にかけてクーデターと光州民主化運動弾圧を利用して政権を奪取した全斗煥にとって、学生を中心とする反政府活動は頭痛の種であった。
 両大統領にとって、「北のスパイ」は政権の正当性確保に利用できる格好のターゲットであった。北朝鮮の脅威を煽ることによって、基本的人権を制限する政策をとり、反政府活動を抑えようとした。金大中などの野党政治家や学生・労働者など反軍事政権を掲げてデモを行う者を処罰していった。その中にも、「北のスパイ」にねつ造され、処刑されていった者がいる。
 また、積極的に反政府活動を行わなかったにもかかわらず、「見せしめ」として拷問され死亡したケースもあった。1973年8月の金大中拉致事件から2か月後に起きたソウル大学教授崔鍾吉事件は、同大学教授を拷問の結果死亡させ、「北朝鮮のスパイであることを自白して、良心の呵責から自殺した」と虚偽の発表をすることによって、学生デモの一時的な鎮静化に利用した。
 しかし、韓国国内に居住している「内国民」を「北のスパイ」に仕上げるのは、骨の折れる仕事であった。そこで、雀鍾吉のように、留学経験者の中からねつ造の候補者を探し出すようになり、主に、ドイツを中心とするヨーロッパ留学関係者が狙われた。そして、ヨーロッパ留学組よりもっと容易にねつ造できたのが「在外国民」、特に、朝鮮総連を通して北朝鮮と間接的接触をもちうる在日韓国人であったのである。

■在日韓国人社会の特性
 在日韓国人社会には、朝鮮半島を分断している38度線のような境界線は存在しな。南北それぞれにシンパシーを感じる人々が緩やかな境界のなかで共生しているのが在日韓国人社会である。例えば、一つの家族の中に、韓国・朝鮮「国籍」もしくは日本国籍を所持する人がいることもある。また、学校もしくは社会で知り合った友人同士が実は国籍上では南北に分かれることもある。在日韓国人にとって、朝鮮総連系の友人は敵ではなく、日本社会において差別されてきた隣人、同じ民族でもあるのである。
 よって、韓国で情報機関に突然連行され、拷問を加えられる中、「韓国に来る前に、誰と会ってきたのか、名前をあげろ」と強要されると、朝鮮総連関係者の名前が出てくるのは十分あり得ることであった。もしくは、朝鮮総連とは直接関係がなく、大学で一度会ったことのある人の名前を出しただけでも、情報機関は日本にいる協力者からの情報によって朝鮮総連と関連付けて「北のスパイ」をねつ造していった。
 例えば、韓国留学前に、朝鮮総連系の友人から、「俺は、韓国に行くことができないので、今度ソウルの様子を教えてくれよ」と言われ「オッケー」と答えると、それは【指令事項】。そして、韓国に到着すると【潜入】。移動のためにソウル市内の交通料金などを調べたら【探知・収集】。夏休みに日本に戻れば【脱出】。久しぶりに友人に連絡をすれば【通信連絡】。ソウルの様子を教えてあげれば【報告】。いわゆるスパイ罪のフルコース成立である。
 彼らの無実が証明されるには、約30年の歳月が必要であった。

■真実和解委員会による真相究明
 盧武鉉政権のもとで2005年5月に制定された「真実・和解のための過去事整理基本法」(以下、真実和解法)にもとづき、同年12月には、「真実・和解のための過去事整理委員会」(以下、真実和解委員会)が設立された。それまで、金大中政権のもとでは、「4・3済州島事件真相究明法」、「民主化運動補償法」、「疑問死真相究明法」などが制定され、また金泳三政権期の「5・18特別法」と盧泰愚政権期の「5・18補償法」により光州民主化運動弾圧事件に関する真相究明・名誉回復並びに賠償が制度化された。だが、在日韓国人スパイねつ造事件はそのような「過去清算」の対象に含まれていなかった。2005年になり.、ようやく在日韓国人被害者にも真相究明・名誉回復の道が開かれた。
 しかし、多くの被害者はこの委員会の存在に気づいていなかった。2006年11月30日、李宗樹と尹正憲は真実和解委員会に真相究明を申請したが、彼らは、大阪の韓国領事館内の掲示板に張ってある掲示物をみて、その存在を知ったとのことである。もし、領事館を訪問していなかったら、真相究明を申請することさえできなかったかもしれない。また、委員会の存在を知った被害者の中には、現在の日本での平穏な日々が壊されることへの不安、依然強く残る韓国政府への不信、痛ましい過去を思い出すことへの苦痛などにより、真相究明申請に対して大変消極的な対応をとった者もいた。
 2012年8月現在で再審に関連している被害者のうち、17人が委員会に真相究明を申請していたが、そのうち、6人については真相が究明され、4人については1部の真相が究明された。また、委員会が申請を受け付けたものの、調査開始されずに、委員会が解散した例が5人、そして、途中で調査が中止されたのが2人であった。2010年12月、李明博政権が委員会を解散させたため、現在は真相究明を求める組織は存在しない。

■再審による無罪宣告
 真実和解委員会で真相の究明がなされた被害者たちは、委員会の勧告を根拠に裁判所に再審請求を行った。例えば、2006年11月30日、委員会に真相究明申請した李宗樹の場合、2008年9月23日に次のような調査結果が発表された。@保安司令部が、不法監禁の状態で拷問を加え虚偽の自白を強制し、Aソウル地方検察庁は、拷問による自白であるという李宗樹の訴えを無視したまま起訴し、Bソウル刑事地方裁判所は、拷問による虚偽自白であるという李宗樹の陳述にもかかわらず、通訳の申し出も拒否したまま十分に審理せず懲役10年を宣告した、と委員会は調査結果をまとめたうえで、李宗樹とその家族の被害と名誉を回復させるために、再審などの適切な措置をとることを勧告した。
 この調査報告をもとに、李宗樹は、2009年4月13日ソウル高等裁判所に再審請求を行った。ソウル高裁は、2010年5月7日に再審開始決定を行い、二度の公判後、7月15日無罪を宣告した。そして、裁判長は、法廷および『判決文』のなかで次のように謝罪した。
 「本件は……拷問によって自白を引き出し、そのために被告人が約5年8か月間に及ぶ青春を刑務所で送ることになった事件である。在外国民を保護し内国民との間に差別待遇を行ってはいけない責務を負っている国家が、反政府勢力を抑え込むための政権安保レベルにおいて、日本で生まれ育った被告人が韓国語を上手に話せず、十分な防御権を行使できないことを悪用し、在日同胞という特殊性を無視して、むしろ工作捜査の生贄としたのが本件の本質である。このような事実に対して、我々司法府は、権威主義統治時代に違法・不当な公権力の行使により甚大な被害を負った被告人に対して、国家が犯した過ちについて心から赦しを乞う」
 この無罪判決、裁判長による謝罪、検察の上告断念が、それまで被害者たちが抱いていた不安を一掃し、一連の再審請求を行う契機となった。

■元捜査官による弁明
 次に無罪判決が下されたのが、尹正憲である。彼の公判で注目されるのは、元保安司捜査官が証人として呼ばれた点である。元捜査官である高炳天は、他の在日韓国人スパイねつ造事件でも頻繁に登場する人物である。
 2010年12月16日、第3回公判において彼の証人尋問は実施された。白髪の小柄な体型ながら、70歳には見えないほどのしっかりした足取りで入廷した彼は、検事・弁護士からの質問に一つひとつ答えていった。終始一貫、尹正憲に対して拷問を加えたことを否定し、当時の捜査手法が不当なものであったことは認めつつも、それは当時の慣例であり、検察からも裁判所からも非難されることはなかったと弁解した。そして、自分は国家のために職務を遂行したのであって、非難されることはひとつもないと自身の行為を正当化した。
 しかし、北朝鮮に行ったといわれる日に日本の自動車学校に尹正憲が通っていた事実や、北朝鮮関係者と密会したといわれる喫茶店がすでに廃業していた点などが証拠として示されていくと、小さな声で「よく、わからない」と答えるほかなかった。無実の人間を「北のスパイ」 へとねつ造する過程がよくわかる証人尋問であったが、あまりにもお粗末な「作品」であった。尹正憲は、高炳天に対する偽証罪の告発を準備中である。

■北朝鮮に渡った被害者
 2012年7月23日にソウル地方裁判所で無罪判決が下された具末謨(77)は、これまで再審で無罪判決が下された人々とは異なり、スパイ行為は否定しつつも北朝鮮に行ったことは再審の中でも認めている。北朝鮮に渡った事実がありながらも、彼は無罪となったのである。『判決文』は、「検事が提出した一部証拠は証拠能力がなく、証拠能力のある証拠もその内容をそのまま信じ難く、また、このような証拠だけで、被告人が、氏名不詳のある者が北朝鮮または総連の指令を受けた者であるという事実を知りつつ、彼と接触し、本件公訴事実記載の脱出、潜入、国家機密漏洩、スパイ行為未遂の各犯行を犯したと認めるには不十分であり、そのほかこれを認めるだけの証拠がない」として、無罪を宣告した。つまり、北朝鮮に行ったという事実より、証拠自体の信用性を問題視して証拠不十分のため無罪とした判決である。

■司法府の変化
 もう一つ具末謨の訴訟で注目される点は、真実和解委員会などでの調査結果なしでも再審が開始されたという点である。これまで再審開始決定が下されたケースは、どんな形であれ真実和解委員会の調査対象となっていた。それが、裁判所の再審開始決定の根拠の一つとなっていた。しかし、具末謨の場合、委員会の調査結果なしで再審が開始された。この理由は、『判決文』から推測することができる。
 既述の通り、本件無罪判決の理由は、証拠不十分である。本人が北朝鮮に行ったこと認めているが、その証言自体が、任意性の保証された状態でなされたものとは判断できないため、証拠不十分としている。
 さらに、注目される点は、この任意性の有無は、被告人が証明するのではなく、検察が立証するものであると指摘している点である。これは、一連の在日韓国人スパイねつ造事件における大きな変化である。例えば、これ以前の尹正憲の再審においては、弁護士が、真実和解委員会の調査報告書で拷問による虚偽の自白であると証明されているので、報告書に基づき迅速に審理するよう求めた。それに対し、ソウル地方裁判所は、再審は、既存の判決を覆す大変重要な作業であるので、再審請求者は、審理の中で一つひとつ過去の判決を覆す証明をしていく必要があるとして、結局証人高炳天が法廷に呼び出された。つまり、立証責任が被害者側に課せられていたのである。立証責任が検察側に課せられるようになったことは、今後の再審の行方に大きな希望を与えている。

■「権力の侍女」への反省
 李明博政権になり、真実和解委員会が解散となった現在、行政において真相を究明し、名誉を回復することが困難になっている。しかし、上記のような司法府の対応を考慮すると、今後いかなる政権が誕生しようとも、司法府が積極的に被害者救済に乗り出す可能性が高いものと思われる。
 このような司法府の変化は、2005年9月に就任した李容勲最高裁長官の「正義の回復と司法の独立」の決意表明が影響していると思われる。実際、それまで時効を理由に認められなかった崔鍾吉遺族の国家賠償請求が認められるようになり、また政治的弾圧事件の被害者に、担当の裁判長が謝罪をするようになった。
 李最高裁長官退任式当日の2011年9月23日に下された金整司の判決においても、裁判長は「司法府は、被害者の立場に立って判決を下すように個々努力しており、被害者の治癒を一番に考えている」と、司法府の立場を説明する場面があった。
 在日韓国人スパイねつ造事件の被害者に無罪を宣告することは、彼らの失われた尊厳の回復と同時に、司法府自身の奪われた「司法の独立」を回復することを意味しているのである。
 2011年9月に李明博政権下で就任した梁承泰最高裁長官のもとでも、このような司法府の姿勢に変化の兆しは見られない。新長官のもとでも、司法府は被害者たちの被害を回復させる判決を下し続けており、むしろ、具末謨の再審のように、これまで以上に積極的に被害者の損害を救済しようという姿勢を示している。
 ただ、司法府は、犠牲者たちが再審を請求しない限り、自主的に再審を開始することはできない。この点は、行政府が独自に真相究明・名誉回復・賠償措置を執ることができるのとは対照的である。そこで、「NPO法人 在日韓国人良心囚の再審無罪と原状回復を勝ちとる会」(東京)や「在日韓国人良心囚の名誉回復を求める会」・「在日韓国良心囚同友会」(大阪)が中心となって被害者の再審請求を支援している。また、2010年12月には李錫兌(59)弁護士が中心となり5人の弁護士による「在日韓国人再審弁護団」が韓国で結成され、再審準備のために韓国を訪れることが困難な被害者と日本で面会するなど、献身的な弁護活動が行われている。さらに、金榮珍(47)元真実和解委員会人権侵害調査局調査官が、委員会解散後も豊富な経験をもとにソウルでの再審請求・弁護活動を支援している。このような関係者の協力のもとに、被害者らの一連の再審請求が行われているのである。

■喪失した特別永住権
 しかし、再審により無罪が確定した今も、彼らは日本における特別永住資格を喪失したままである。彼らは、長期間日本に戻ることができなかったため、特別、永住資格を喪失し、一般永住資格で日本に滞在している。被害者らは、無罪が確定した今、この特別永住資格を回復するよう日本の法務省に求めている。
 この点に関して、無罪の確定した尹正憲や金東輝(58)が法務省に問い合わせたところ、@特別永住資格付与の条件である「引き続き本邦に在留する者」とは言えないため、現行法の解釈・運用により特別、永住者としての地位を回復させることはできず、A対象者の一部しか再審などが終わっておらず、韓国における再審を含めた手続きの進捗を見守り、全体が決着した段階で、日本側の対応を検討するのが適当であるが、B一方、「法務大臣は、永住者の在留資格をもって在留する外国人のうち特に我が国への定着性が高い者について、歴史的背景を踏まえつつ、その者の本邦における生活の安定に資するとの観点から、その在留管理の在り方を検討するよう」関連法規で規定されているので、これに基づいて、事情に応じてどう対応していくのかということについても、今後の課題としたいという回答であった。
 この在留資格の問題に関しては、韓国政府も日本政府に「要請」する方針であるといわれている。尹正憲と金東輝また担当弁護士など関係者が、2012年7月2日韓国外交通商部を訪問し、スパイねつ造事件によって特別永住権を喪失した被害者たちの特別永住権回復を韓国政府から日本政府に要請すをように求めたところ、担当者が前向きに検討すると回答している。ただし、外交通商部が被害者に対して「人道的な見地から」協力的な態度を見せている反面、検察は、尹正憲の再審を担当した検事が「拷問があったとしても、スパイである可能性は排除できない」と主張したり、司法府の無罪判決を受け入れずに、李宗樹と金元重以外の再審無罪判決に対して上告という形で執拗に抵抗を続けている。このような韓国政府内の対応の「乱れ」が続く限り、日本政府への要請が功を奏するのは難しいのではないだろうか。

■国境を越えた韓国「民主化」
 植民地支配・分断体制の犠牲者ともいえる被害者らであるが、事件から30年近く経た今になってようやく真相究明、名誉回復がなされつつある。90年、95年には、民主化運動の原動力ともいえる光州民主化運動弾圧事件に関する真相究明・賠償法が制定され、99年には、民主化運動のなかで「北のスパイ」にねつ造されて殺害された人々、また共産主義勢力として虐殺された4・3済州島事件に関する真相究明法が、そして、2005年には在日韓国人スパイねつ造事件を含む「すべての過去」が真相究明の対象となる真実和解法が制定されている。
 つまり、90年代には主に民主化運動に貢献した人々が対象となり、99年からは、民主化運動に積極的に参加した人々だけでなく、「北のスパイ」として軍事政権の統治手段の犠牲になった韓国国内の人々が、そして2005年になってその対象が海外にまで拡大され、韓国から日本を訪問した結果「北のスパイ」にねつ造された人々、そして、在日韓国人スパイねつ造事件の犠牲者へと広がり、1987年の「民主化」から四半世紀のときを超えて、ようやく在日韓国人被害者もその恩恵を受けている。韓国の民主化にともなう「移行期の正義(transitional justice)が、段階的に進んでいると言えるであろう。
(敬称略)