被災地移動支援(熊本)レポート ―
2016.6.96.17
移動ネットおかやま・中村守勝

■ 初日69(木):
 新幹線で、岡山から熊本へ(2時間20分)、熊本からJR豊肥線で水前寺駅、市バスで身障者福祉センター前、というルートで行ったが、水前寺駅からのバスは、基本1時間に1本で、私が到着した時は、2時間半くらいの待ち時間であった。後で分かるが、熊本のバスは、全てが、熊本城近くの交通センターを基点としていて、そこから乗れば、ルートは違うが、日赤前や身障者福祉センター前行きは、何本も運行されている。ただ、熊本駅から市電に乗って、交通センターの近くの辛島まで行かなければならない。熊本市の中心は、熊本城であり、熊本駅は少し離れた場所にある。
 身障者福祉センターでは、関西STSの福田さんと村井さんが待っていてくださった。
 明日、大阪に帰る村井さんに、夕方から、私が明日送迎をすることになる益城病院までルートの下見を兼ねて送迎車で案内していただいた。
 豊肥線から見た熊本市内は、屋根にブルーシートを掛けている家が何軒かあったが、倒壊したようなところは見当たらなかった。車で移動中も同様であったが、益城町に入るとニュースで見るような光景が、道路の両側にあり、ほとんどの家が倒壊している状況で、電柱も傾いているため、地震から2か月になるのにほとんどの家で、断水と停電が続いているとのことであった。
 村井さんが勤めておられる「NPO寝屋川市民たすけあいの会」は、障がい者の様々な支援活動を長年されてきて、社協との連携もできていて、福祉有償運送の需要が多くて、自分たちでは賄いきれないことを話すと、社協が寝屋川市全域でボランティアによる外出支援サービスの福祉有償運送を行うことになり、運転者講習も社協が行っている。

2日目6月10日(金)
 今日の予定は、送迎の拠点になっている身障センター(熊本県身体障がい者福祉センター)の避難所に暮らしておられる方が3人と益城町に在住の方が1名の計4人で、村井さんは、夕方の飛行機で帰られるとのことで、拠点に待機していただいて、福田さんと私が送迎を担当する。車は、ミニキャブとファンカーゴで、車いすの積載車両であるが、車いすで移動する方はおられなかった。行先は、病院とデイケアと歯科医院と整骨院で、みなさん震災前は、病院の近くに住んでいて、震災後は近くの小学校の避難所にいて、身障者センターが、福祉避難所として開設されてから、移ってこられた方ばかりであった。当初は、身障者センターが福祉避難所に指定されていなかったが、ふくし生協の小出さんたちが、熊本県に掛け合って、福祉避難所として開設されたという経緯がある。小出さんたちは、震災後すぐに「被災地障がい者センターくまもと」を立ち上げて、全国から駆け付けたボランティアの人たちと様々な相談に対応していた。それから身障者センターを熊本県と交渉して福祉避難所として開設したことにより、そこの運営をすることになった。ひとりで福祉避難所になった。ひとりで福祉避難所を運営できるものではないので、社会福祉士会と介護福祉士会に応援を頼み、全国から来てくれた社会福祉士と介護福祉士の方々で、福祉避難所の運営を行い、ボランティアや支援物資のコーディネート業務と責任者を小出さんが引き受けておられた。本来の勤務先である「ふくし生協」の業務もあり、震災当初は、何日も家に帰れない日が続いていたそうで、震災から5kg痩せたとのことであった。福祉避難所は、開設当初は50人くらいの方が来られて、24時間の見守りも必要なため、様々なボランティアが必要で、夜だけ来てくれるボランティアもいる。福祉避難所で生活している人は、現在13人~14人くらいで比較的落ち着いていた。

■ 3日目6月11日(土):
 今日の送迎予定は1人のため、福田さんにしていただいて、私は、被災地調査ということで、益城町の避難所と建設されているというテクノリサーチパークの仮設住宅、被害が大きかった西原村、南阿蘇村、阿蘇市に行くことにした。益城町の総合運動公園は、広大な駐車場があるが、どのスペースも空いているところには、何かの荷物が置いてあり、ここから出勤する人や、用事で出かける人も、夜には帰ってきて、ここで寝ておられるようであった。愛知県から来たボランティアが仮設トイレの掃除をしていた。
 テクノリサーチパークは、岡山でも同様の名称のところがあり、空港の近くに造られていた。広大な面積の場所に再春館製薬をはじめ、色々な研究施設が点在して、その中に大きな公園もある。というところに仮設住宅を500戸造るという。
 震源地から離れた場所ということと、広い場所が確保できるということで、ここを選択したのだろうが、ここに住んでいても生きていけるものではない。学校も病院もスーパーも何もない場所なので、移動手段は必ず必要になる。
 益城町としても巡回バスを走らせるだろうが、個別の移動も必ず必要で、小出さんたちも、仮設住宅ができたら移動支援の需要は爆発的に増えるだろうと予想されていた。場所が広すぎて、仮設住宅の建設場所を探すにも迷うくらいであった。やっと見つけたのは、どこかの駐車場で、駐車スペースに収まるコンテナのような事務所風の多分単身者向けの仮設住宅であった。
 西原村から南阿蘇村に抜けて行ったが、途中の集落では、すべての住宅が全壊または半壊のような状態であった。
 南阿蘇村も被害が大きいと聞いていたが、国道を通っただけであったので、見たところでは、被害はないような感じであった。道の駅の人に聞いたら、役場の人が回ってきて、梅雨になったら土砂崩れがおきる可能性があるので、早く家を出ていくように言われているとのことであった。南阿蘇村から阿蘇市に回り、阿蘇神社に行った。神社、仏閣は普通の家より堅牢に造られている。その神社が文字通り、ぺちゃんこに潰れていた。国道沿いのみであるが、ところどころで屋根にブルーシートを掛けている家はあったが、倒壊しているような家は見当たらなかった。阿蘇の開拓者を祀っているという阿蘇神社が、災害を引き受けてくれたような気がした。

■ 4日目6月12日(日):
 今日の予定はひとりだけで、土日は病院も休みなので、送迎予定は少ないとのことであった。益城町の自宅アパートから震災ごみを捨てに旧小学校の跡地に持っていくということで、身障者センターから自宅アパートに行った。県道沿いの病院の裏にアパートが3棟並んでいたが、アパートは片方の壁が落ちたくらいで、注意という黄色い張り紙があった。しかし、前の病院は3階建ての鉄筋コンクリート造りであったが、半壊の状態で、県道沿いに活断層があったことが伺える。落ちて使えなくなった、電子レンジと電気釜と椅子と布団を積んでいると隣の方が家の前を掃除しておられて、2階には子供連れのご夫婦がいたが、もう帰ってこないだろうと話された。震度72回も来て、余震もずっと続いていて、とても怖い思いをしたことで、もうここには住めないと思われたのだろう。
 ごみの集積場に行くと、雨の中、ボランティアの人もいっぱい来ていて、とても親切に、捨てる場所を案内してくれたり、荷物を下ろしてくれたりした。

■ 5日目6月13日(月):
 今日の予定は4人であったが、ひとりキャンセルになった。私は2人を担当して、二人とも身障者センターから通院の方であった。身障者センターの隣が熊本県福祉事業団で、その隣に日赤病院があるが、日赤に行く人はひとりもいない。いても歩いて行かれるので、分からない。元々色んな場所から福祉避難所に来ておられる方々なので、行く病院も色んな所になる。午後から松山の武田さんが来てくれたので、一緒に同乗してもらった。

■ 6日目6月14日(火):
 今日の予定は3人で、私は、大学病院に行く予定だったが、その方がキャンセルになって、先日震災ごみを捨てた方が、アパートでの生活を始めるのに、布団を買いたいとのことで、近所の衣料品のスーパーに行って布団を購入して、益城町のアパートへ行った。

■ 7日目6月15日(水):
 午後からの送迎を武田さんにお願いして、気になっていた熊本城へ市バスに乗って行った。
 熊本城は、立ち入り規制がされていて、近くにも行けなかった。塀や石垣の一部は壊れていたが、城自体は瓦が落ちただけのように凛として建っていた。帰りにバスセンターから、低床バスにのったところ、電動車いすの人が乗っていた。車いすの後部車輪に木製のストッパーをはめているだけで、固定装置のようなものはなかった。交通局前で降りられるときに、どのようにするのか?運転手の人が慣れていなかったら手伝おうかと、思って見ていたが、乗車口の横に白いボックスがあり、その中から折り畳みのボードを出されて、バスと歩道の間に敷いて、車いすのグリップを握って少し方向を変えて、実にテキパキとされていた。また、電動車いすに乗っている人も、慣れておられるようで、方向転換もスムーズで、降車もスムーズであった。これは、訓練を積んでいるというより、慣れている。ということは、車いすでバスに乗る人が比較的多いということだろうと思った。実際に熊本の繁華街でも車いすの人を見かけた。各地に低床バスが導入されて久しいが、積極的に利用している車いすの人はどのくらい居るのだろうか?福祉有償運送のような個別運送も大切だが、なるべく公共の交通機関を利用することも、とても大切なことで、それによって、特別なことが当たり前のことになっていく。


■ 8日目6月16日(木):

 身障者センターから大学病院に行って、西区の自宅アパートに行って、引っ越しの見積もりをもらって、区役所に行く。お母さんと二人暮らしの方で、お母さんが福祉避難所から入院されて、アパート自体は少しの修理で大丈夫だったが、怖くてすめないため、中央区の身障者センターの近くの団地が、抽選で当たったので、引っ越されるとのことであった。
 アパートに着くと引っ越し業者の方(赤帽さん)が来られていて、丁寧な挨拶をされた。帰りにも丁寧な挨拶をされたので、とても感じのいい人だとの印象であった。聞くと料金もとても安くしてくださったとのことで、どこで探したのですか?と尋ねると、小出さんの紹介です。とのことで、小出さんの紹介だったら間違いがないと応えた。小出さんは、色んな人の知り合いがいる。今までの活動が、色んな人を結び付けている。

 身障者センターの福祉避難所は、
6月末日で閉鎖して、通常の業務に戻ることが決定している。仮設住宅も出来て行って、避難所も統合されていき、やがて避難所も閉鎖されて本来の業務に戻っていく。阪神の震災の時も、東北の震災の時も同様に、仮設住宅は仮設住宅で新たな不便さと問題が生じてくる。今後は、どのように解決していくのかを、行政や住民と話し合いながらの支援となる。
 震災があってすぐに、関西
STSの柿久保さんと一緒に駆け付けた福田さんは、震災から2か月で、延べ1か月は熊本にいるとのこと。ボランティアもやがては、本来の仕事や生活に戻らなければならない。
以上